「楯築ルネッサンス」アドバイザーの方々をご紹介いたします。
楯築遺跡とその復元の大切さ
楯築遺跡は日本の島々の歴史の節目になった遺跡です。農業は太陽と水の動きでとれ高が決まります。大陸で王様による天体観測がはじまります。太陽は決まった動きをしますが、水は気まぐれです。人々のリーダーである首長は「水どうにかしてくれ」との民の切実な願いをうけて、田畑に水を引く工事や、おまじないをしました。このおまじないが大ごとになっていく中で、王様の力が強くなり、クニができていったのです。
おまじないには、流れる水をかたどったのでしょうか、龍や円弧をとりいれたデザインが使われました。楯築でも、旋帯文(せたいもん)とか弧帯文(こたいもん)と、いわれるデザインを刻んだおまじない用の石が置かれていました。中国大陸では、天を表す円形と、地を表す四角形の、2つの盛り土をして、そのうえに皇帝が立って、おまじないをしました。どうやら、この日本では、円も四角もひっつけてしまって、盛り土をつくり、てっぺんに首長の体を埋めて、首長の霊でもって、クニを見守ってもらうような考えができたようです。この考えを一緒にもっているグループができあがっていったのが、日本の島々でのクニのはじまりです。
円形や四角形をひっつけた盛り土のお墓づくり、人々をまとめるクニの発生は、この岡山、この倉敷、この楯築が、ずいぶん早めに始めたようなのです。古墳時代には、盛り土のお墓がたくさんできますが、この楯築はその元祖にあたるタイプの遺跡です。ただ、今は壊されてしまって形がわからないので、これから丁寧に元の形に直すといいでしょう。楯築は、私たち日本列島人の脳内に、クニや首長(王)の概念が生じ、崇拝をはじめた証拠の遺跡です。大切に保存しながら、多くの人々にみてもらいたいと思います。
磯田道史
人類は、約700万年前に「ヒト」としての独自の歩みを始めて以降、現在の私たちの心にも訴える幾多の遺産をのこしてきました。それらの中でも、紀元前1万年よりこのかた、人びとの心をまとめるために地球上各地で営んだモニュメント(巨大構造物)は、それぞれの国の社会のしくみの発達に、大きな役割を演じました。巨大な古墳を生み出した日本列島はその典型で、モニュメントの名称(「古墳」)をそのまま国家黎明期の時代名(「古墳時代」)として用いる、世界でも数少ない国です。
古墳は、日本列島の社会や文化の歩みを決定づける歴史的存在であると同時に、人類が遺した先史~古代モニュメントを代表する遺産です。そして、その古墳のもっとも有力なルーツが楯築であることも、半世紀におよぶ考古学の地道な調査と研究によって解明されました。2021年に刊行された報告書『楯築墳丘墓』(宇垣匡雅編)はその最新の到達点です。これらにより、楯築は、弥生時代から古墳時代に向けての日本列島史の展開を決定づけた重要人物が埋葬され、祀られ、記念された場所であったことが明らかです。
このかけがえのない楯築の価値が未来に向けて伝えられるように、私は、学術的価値を踏まえつつ楯築遺跡とその周辺を整備・保全されることを希望します。また、教育や啓発を通じ、楯築を健全に守り伝えるための人びとの知的基盤をますます豊かにする地域社会づくりが促進されることを希望します。
松木武彦
古墳時代の朝明けを告げる楯築古墳
楯築古墳は、日本列島最古最大の古墳である。
近藤義郎氏を中心とする調査団によって数多の発掘調査が行われ、弥生後期の全長80mをこえる日本列島最古最大の中円双方墳であることが実証された意義は計り知れない。その上、墳丘上に立つ巨大な立石群は、古墳時代の曙を告げるに相応しい威容を誇り、遺体を包み込む多量の水銀朱と共に新たな葬送儀礼の時代に入ったと言える。
なお、復元整備に当たっては、かつての岡山大学の調査メンバーと相談・協議の上、進める必要がある、と考えます。
<読売新聞奈良版記事より >
「変わった色の土器があるな」。1971年7月、なじみの食堂で昼食を食べて戻った桜井市辻の発掘現場。ぶらぶら歩きながら幅3メートルの川跡を何げなく見ているうち、ふと気がついた。取り上げてみると、10センチ大の特殊器台の破片だった。
吉備特殊器台とは、弥生時代後期(2~3世紀)の吉備(岡山県)で作られた装飾性の高い土器で、後の円筒埴輪はにわにつながったとされる。卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳でも見つかっている。
「なぜ、こんなところに……」。だが、この小さな土器片こそ、纒向遺跡が特別な遺跡だということを証明する第一歩となった。
その後の調査で、纒向遺跡で出土する土器のうち、15~30%は吉備や東海、山陰など外来系の土器とわかった。各地から多くの人々が集ったことを示す。この地が邪馬台国や大和王権発祥の地と考えられる大きな根拠の一つになっている。
石野博信