纏向 – ブリュッセル 説


 EU:欧州連合(おうしゅうれんごう、EU; 英: European Union、仏: Union européenne、独: Europäische Union)は、ヨーロッパを中心に27か国が加盟する経済的および政治的連合で1993年のマーストリヒト条約の発効によって確立されました。

 第1次世界大戦(1914~18)後の1923年にリヒャルト・ニコラウス・エイジロ・クーデンホーフ=カレルギー [日本名:青山 栄次郎〈あおやま えいじろう〉東京生まれオーストリアの国際的政治活動家。汎ヨーロッパ連合主宰者] が発表した宣言書「汎ヨーロッパ(Paneuropa)」(1923年)から始まったこの汎欧州運動が現在のEUにつながる最も古い欧州統合運動といわれています。

 第二次大戦後の1950年、フランス政府はジャン・モネの起草による「シューマン・プラン」を発表、独仏間の対立に終止符を打つために両国の石炭・鉄鋼産業を超国家機関の管理のもとに置き、これに他の欧州諸国も参加するというECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)の設立を提案しました。このECSCは1952年に設立され、1958年には更に領域を拡げて、EEC(欧州経済共同体)、EURATOM(欧州原子力共同体)が創設されました。その後1967年にこの三共同体の主要機関が統一され、欧州共同体(EC)が誕生し、その後のEU(欧州連合)へ結実してゆくのです。

 このように、構想から誕生まで70年(1923〜93)かかったという歴史を見たとき、私は弥生時代の倭国統一はいったい何年かかったのだろうかと考えました。

 そして、第一次、第二次世界大戦を通じて常に対立してきた、フランスとドイツが共通の敵である「共産主義」に対抗すべく、平和を希求して結びつき、周辺の諸国がこれに賛同参加していく姿が「楯築と西谷の特殊器台祭祀の共有」と後の前方後円墳体制の倭国統一への道筋と重なって見えます。

 特に首都機能をどこに置くかという問題が似通っていると感じたのです。ヨーロッパにおいて、これらの超国家機関の事務局機能そして後の首都機能をどこにするのが妥当か?パリではドイツが反対するし、ベルリンではフランス、イタリアが反対する。その地政学的バランスからベルギーのブリュッセルが選ばれたのは極めて自然であったと思います。

 そして、その1800年も前に、倭国では30ヶ国が長く続いた争いをやめ、纏向に新都を建設したわけです。吉備でも出雲でもなく、また東海でも丹波でも阿波でもない、位置的にその中心地である「奈良・纒向」加えて、最後まで敵対関係にあったであろう九州南部勢力や将来的リスクである半島大陸の勢力とも、距離を保てる「奈良・纒向」が選ばれたのだと考えます。

 その過程において、「欧州統合」と相似的とも言える第1次及び第2次の大乱を経て女王・卑弥呼そして女王・トヨが共立されました。これらを決断した指導者たちの知恵は、平和を強く願ってのことだったのにちがいありません。
 
 奇しくも、楯築から箸墓まで現在の一般的な年代観においてもほぼ同じ70〜80年という時間が経過しています。今、ウクライナで勃発している対ロシアとの悲惨な戦争の即時終結を願うとともに、人類がこの旧態然とした大国主義と決別し全地球の平和が築かれる新しいフェーズに入るきっかけの1ページになることを心から願うばかりです。

楯築ルネッサンス 副代表 近重博義