第二部:古代史YouTuber4人による、「古代史ライブフォーラム&オフ会」
*パネラーのご紹介*
伊藤雅文
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1959年生まれ。広島大学文学部史学科卒業。卒論は北欧ヴァイキング史だが、十数年前から日本古代史にはまる。邪馬台国論では「魏志倭人伝後世書き換え説」を、日本書紀論では「『原日本紀』仮説による無事績年削除短縮法」という紀年復元法を提唱する。著書に『古代天皇たちの真実』『日本書紀「神代」の真実』『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く』(ともにワニブックスPLUS新書)、『ヤマト王権のはじまり』『邪馬台国は熊本にあった! 』(ともに扶桑社新書)がある。
消された!? 古代吉備王国 伊藤雅文
「古代吉備」について、『日本書紀』の記事と私の提唱する「無事績年削除法」による復元紀年から考えてみました。
『日本書紀』の神武東征譚を読む限り、大和征圧の主力は吉備であったと推定できます。「なぜ吉備なのか?」の答えとして、いわゆる「神武東征」を「吉備の事代主神勢力による大和奪還作戦」と位置付けました。
3世紀半ばに大和から出雲にかけてプレヤマト王権を築いていた大己貴神・事代主神親子は、260年代半ばに高天原出自の饒速日命勢力によって大和を奪われます。それが「出雲の国譲り」であり、このとき大己貴神は死に、事代主神は吉備に逃れたと推測しました。その事代主神(=海神)と初代天皇(彦火火出見尊=神武天皇=崇神天皇)は、塩土老翁の手引きにより同盟を結びます。その経緯は「海幸山幸神話」に語られます。事代主神は大和奪還作戦の実行にあたって、大和にいる天孫族=饒速日命を倒す旗頭として、同じく天孫族である彦火火出見尊を立てたというわけです。
吉備から進軍した日向・吉備連合軍に対して、饒速日命は長髄彦を殺して帰順し、初代天皇が即位(復元紀年で301年)することで東征は完遂されヤマト王権が成立します。すると、初期ヤマト王権の勢力図はどうなるでしょう?初代天皇周辺の日向勢力はわずかで、中核を担うのは吉備の事代主神勢力です。事代主神はプレヤマト王権時に三嶋溝橛耳の娘の玉櫛媛と陶津耳の娘の活玉依姫を娶りましたから、両勢力も王権を支えたと思われます。また、おそらく事代主神がのちの正妃と考えて迎えた倭迹迹日百襲姫命の父(孝霊天皇あるいは孝元天皇のモデル)勢力も支えたでしょう。さらに、事代主神の故郷出雲の勢力や帰順した饒速日命らの勢力も加わったと思われます。このように、初期ヤマト王権は吉備を中心に多くの勢力によって構成されていたと推測できます。
その後の吉備と大和の古墳の変遷を比べますと、吉備は大和と歩調を合わせて歩んでいるように見えます。しかし、5世紀に入る頃まで『日本書紀』に吉備が登場することはありません。まるで消されているかの如くにです。その原因は、5世紀に「古代吉備王国」は滅亡し、その後の吉備はヤマト王権によって運営されたからだと考えました。『日本書紀』によれば、応神天皇は吉備の国を割いて分割統治体制にしますし、雄略天皇の治世には吉備下道臣前津屋や吉備上道臣田狭が粛清されます。そして、決定的なものは雄略天皇崩御(復元紀年で498年)直後の星川皇子の反乱失敗だと推察しました。この6世紀直前の古代吉備王国の終焉とともに、輝かしい歴史は封印されてしまったのです。
さて、楯築墳丘墓です。弥生時代最大の墳丘墓と言われますが、いったい誰の墓なのでしょうか?301年を初代天皇即位年とすると、楯築墳丘墓は『日本書紀』では神代に築造されたことになります。しかし、神代においても吉備の物語が綴られることはありません。辛うじて「一書曰」(異伝)に言及を求めると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した十握剣が吉備の石上布都魂神社にあるという伝承が見つかります。素戔嗚尊は出雲から根国へ行ったことが『日本書紀』に語られています。すなわち、吉備こそが根国であると推論できるのです。では、出雲から吉備に行った素戔嗚尊が楯築墳丘墓に葬られたのでしょうか?楯築墳丘墓の築造年代が3世紀に降るものであるなら、その可能性はあると思います。神々の系譜に実年代を与えた結果にしたがえば、素戔嗚尊が根国へ行くのは西暦200年以降だと推定できるからです。しかし、2世紀末葉と考えられている現状からは、素戔嗚尊を受け入れる前の吉備王(根国王)が被葬者と考えなければなりません。吉備は瀬戸内海交通の要衝であり、弥生中期から塩の製造・販売による富の集積が進んでいたと考えられます。棺に敷き詰められた32キログラムにおよぶ水銀朱を見ても、名もなき吉備王とはいえ、当時の日本で最も強力な王であったことは間違いないでしょう。
古荘英雄
「地図をなぞって日本古代史を考える」チャンネル登録者数3350人 ClickでYouTubeへ
昭和36年生まれ。昭和60学習院大学卒業。(同時期天皇陛下ご在学)
文学&古代史の二刀流YouTuber。福岡市在住。
ベースとなる体験は
①古田武彦九州王朝説と関裕二氏の著作の影響で10年間の古代史妄想
②高樹のぶ子氏・片山恭一氏も加入していた文芸誌らむぷにて文章修行。
小説現代新人賞予選突破経験有 短編集「境界の村で」出版
古代吉備1000文字 梗概
古代の遺跡は 吉野ケ里遺跡 平原遺跡 朝日遺跡 伊勢遺跡 など単体としてその遺跡が注目されるものです、しかし吉備の場合は 吉備の上東遺跡 吉備の津寺遺跡 吉備の津島遺跡 吉備の南方遺跡と言う風に どれもが「吉備の」という冠をつけて私たちは考えてるように思います。それはなぜか?古代海だった吉備の穴海沿岸に生まれた港湾集落連合だったからだと思う次第です。
岡上 佑
「岡上佑の古代研究室」チャンネル登録者数1700人 ClickでYouTubeへ
1979年生まれ。奈良県在住。幼少の頃から古墳に親しみながら過ごす。中国への駐在を契機に古代史研究を開始する。私的出版物として、「魏志倭人伝の探究」「魏志倭人伝の究明」などがあり、本気で倭人伝は解読可能と信じているらしい。
youtubeチャンネル「岡上佑の古代史研究室」にて独自研究をコツコツ発表中。
こんにちは、岡上です。今回は吉備の動画ということで、箸墓に立てられた特殊器台にフォーカスして考えて行きました。
特にポイントになるのは、箸墓には「宮山型特殊器台」と「都月型円筒埴輪」の二種類が検出されているようだということです。
ここで、ちょっと曖昧なのは、箸墓は宮内庁の陵墓指定があり、大掛かりには調査されていないからです。
さておき、「宮山型特殊器台」と「都月型円筒埴輪」の差というのは、実は結構形式な差でありますが、一方は弥生時代に、もう一方は、確実に古墳時代に繋がっています。
「都月型円筒埴輪」は、埴輪の直接的な原型というのは、これはもう定説ということになります。
ここで問題となるのが、じゃあ「都月型円筒埴輪」の原型とも入れる「宮山型特殊器台」ってなんなのか、ということです。
ここの問題意識というのは、奇しくも武田さんの問題意識と全く同じでした。
結論だけ言うと、武田さんと私は、「特殊器台」とセットなっている「底抜けの壺」、特殊壺に特解決の鍵があると言うところまで、一緒です。これは本当に驚きました。
ただ、武田さんが、宮山型特殊器台に、大和からの影響を感じとる、つまり「大和→吉備」の年代順なんだろうという推測とは別に、私は、大和に元からあった二重口縁壺が、「底抜け化」して二重口縁壺型埴輪になっているいう点を重視して、「吉備→大和」に底抜けの壺が伝わったと考えるところで、180度違う結果になっています。 笑
武田さんの動画でも言っていましたが、宮山墳丘墓と箸墓の相対年代というのは、ほぼほぼ同時期というのが、一番無難な考えです。相互影響にしている中で、どちらを先かを決定するのは非常に難しい問題です。しかし、よく考えてみてください、吉備と大和、二つの距離というもがありますから、自然発生的に同時に宮山特殊器台が発生するなんてことは、確率的に極々微小なわけです。「ほぼ同時ではある」と高を括って問題を追及しないというのは、非常に勿体無い。必ず、どちらかが先なんですよ。常識ぶった考えというのが、実は一番、知的な進歩を妨げていると言ってもいいと思います。
ちょっと、テンションが上がりましたが、今回の動画の方では、吉備と箸墓を考える上で、今度は都月型埴輪が共通して、しかも箸墓の二分の一相似形墓である浦間茶臼山古墳に話が飛びます。ここは、私は個人的にはもモモソヒメの弟であるイサセリヒコの墓ではないかと思っていますが、それはともかく、この箸墓と浦間茶臼山古墳を結ぶ直線の向こうには、実はなんと、伊勢神宮内宮があるわけです。しかもこの伊勢神宮と浦間茶臼山古墳を結ぶ直線上には、仁徳天皇陵、応神天皇陵、箸墓、三輪山、そのた諸々の重要な神社や遺跡が立ち並ぶんですね。これは、箸墓と浦間茶臼山が二分の一相似形墓であると知って、それを国土地理院のホームページで結んでみたことから始まります。一見オカルティックで、「またトンデモか」と感じる方も多いと思いますが、これは単なる地理的事実です。動画のほうでは、この直線の角度から、モモソヒメの名前の由来まで解き明かしています。
以上、ちょっと吉備スペシャルということで、かなり内容を盛ってしまった感があった動画ですが、youtube上でも、こんなに自由に、そして、深く古代史を追及しているチャンネルがいくつもあるというのを知ってもらえましたら、嬉しいです。
武田晴樹
「燃え盛るように熱い日本古代史」チャンネル登録者数5810人 ClickでYou Tubeへ
昭和45年神戸市生まれ。立命館大学経済学部卒業。現在はプログラマー。円門外なのにyoutubeで『燃え盛るように熱い日本古代史』というチャンネルを運営しています。時に邪馬台国や倭の五王について熱く語り、時に古墳や博物館について紹介し、時に土器編年や銅鏡編年や炭素年代法や暦法について詳しく解説しています。一見、難しそうな内容ですが、須恵器キャラと特殊器台キャラとの漫才風トークにより、学びながら楽しめるチャンネルになっています。
宮山墳丘墓と箸墓古墳はどちらが古いのか[動画の概要について]
大和王権の誕生に吉備は大きく関わっているが、人やモノの流れは一方向ではないという点において単純ではない。吉備から大和への流れが確かにある一方で、大和王権の影響は全国に及ぶことからも分かるとおり、大和から吉備への流れもある。その混在する流れを明確にしなければ、吉備の立ち位置や大和王権の実体を正しく理解できない。このテーマは大和王権誕生の謎に迫るテーマである。
ところで吉備の影響を受けた庄内式土器は庄内の時代に登場するのに、同じように吉備の影響を受けた特殊器台はどうして布留0の時代になるまで大和で出現しないのであろうか。墳丘を巨大にするという思想は庄内の頃に受け入れられていることから考えると、日用品が先に伝わり、祭祀が後に伝わったという話ではない。おそらく大和王権の創始者は何が何でも吉備風でやろうという人ではなかったに違いない。庄内式土器にしても特殊器台にしてもそれが優れた品だったから取り入れたのであろう。文化と政治の間には因果関係があるが、文化の要因は政治だけではないため、文化の伝播というものは決して単純なものではない。
ところで特殊器台と特殊壺は吉備発祥の文化である。立坂型に始まり、向木見型を経て、最終的に宮山型が登場するが、この宮山型が宮山墳丘墓と箸墓古墳を結び付ける考古学的遺物である。ちなみに大和ではこの宮山型しか見つからず、逆に吉備では宮山墳丘墓からしか宮山型が見つからない。
では、宮山型は宮山墳丘墓で誕生して大和に伝わったのか、それともその逆なのかについて考えてみたい。宮山墳丘墓は弥生墳丘墓、箸墓古墳は古墳という点から考えると、宮山墳丘墓→箸墓古墳の順であるが、大王家の墓制変化に地方豪族が即日対応したとは限らないので根拠にはできない。吉備では宮山墳丘墓のみ、大和では箸墓古墳をはじめとして四遺跡という点から考えると、箸墓古墳→宮山墳丘墓の順であるが絶対的な法則ではない。考古学的な年代を考えた時、宮山墳丘墓と箸墓古墳から宮山型が出土しているという時点で二つはおおむね同時代である。宮山型特殊器台の弧帯文の変遷を体系化し分析する方法もあるかと思うが、残念ながらサンプル数的に危ういと思う。
ところで、ある文化の発祥地がどこにあるかを調べる方法として、その文化がどちらの文化に根付いたものから発生しているかで調べる方法がある。
そういう点で見た時、宮山型に大和の文化に由来する特徴が見られることが分かる。宮山型特殊壺は畿内系の二重口縁壺の影響を受けている。つまり、宮山型特殊壺は従来の特殊壺とは違い、口縁が直立するのではなく、朝顔形に開いている。といった考察を経て、纒向型前方後円墳、二重口縁壺の影響の二点から、大和から吉備への流れがあることをもって宮山型は大和で発生し、宮山墳丘墓に伝えられたと結論付ける。つまり、特殊器台・特殊壺が吉備発祥と考えた上で、それが大和風に変化したのが宮山型とするのが今回の結論である。すなわち、宮山墳丘墓より箸墓古墳が古いという結論である。
で、動画はこれで終わると思いきや、さらに続き、以下の考察をする。
矢藤治山系特殊壺も口縁が朝顔形に開くという特徴を持っている。これも大和から吉備への流れと考えられる。宮山型特殊壺に見られる焼成前穿孔も大和の影響と考えられる。宮山と矢藤治山は竪穴式石槨と中国鏡出土という点でも新しいと考えられる。そもそも宮山型の特殊器台は口縁が内側に傾いていて吉備らしくないフォルムである。しかし、この情報をもってしても、いまだ百家争鳴で、このテーマはすでに終わった議論にはならない。
とまとめた後も動画はさらに考察が続く。二つの文化の融合というのは、交流が活発になればなるほど発祥地は分かりにくいものである。箸墓から全国に拡散していない、宮山から周囲に拡散していないという点から考えると、宮山型の流行は短期だったと考えられる。宮山型が宮山と大和の四つの遺跡でしか出土しないということは、宮山型と関係する部分において宮山と大和は非常に密接だったと考えられる。
最後に「宮山墳丘墓を造った人が、宮山型を大和から吉備に持ち帰ったのか、吉備から大和に持ち込んだのか」と述べて動画が終わると思いきや、突然、「分かったぞ。大和が先だ」と言って、最終結論を語り始める。吉備の特殊壺は畿内の二重口縁壺の影響を受けたという『点』で考えるのではなく、二重口縁壺の影響はそれ以降も続くという『線』で考えるなら、二重口縁壺の影響を受け続ける場所という点において大和で起こった影響と見る方が蓋然性が高いと思われる。やがて、特殊器台は円筒埴輪に変わるが、特殊壺は破棄され、二重口縁壺が壺型埴輪や朝顔形埴輪へと変わっていく。これが私の動画の概要である。