第2部 基調講演「私たちの楯築遺跡の魅力を発掘しよう」
禰宜田佳男 先生 大阪府弥生文化博物館 館長
兵庫県生まれ、大阪大学(博士)。大阪府教育委員会、文化庁記念物課を経て、2019年4月より大阪府弥生文化博物館館長に就任 主な著書、『研究最前線邪馬台国いま何が、どこまで言えるのか』(共著)朝日新聞出版 2011年、『農耕文化の形成と近畿弥生社会』同成社 2019年など。
皆様こんにちは。ただいまご紹介にあずかりました大阪府立弥生文化博物館で館長をしております禰冝田佳男と申します。よろしくお願いいたします。度々ありがとうございます、拍手をしていただいたのはありがたいんですけれども、実はですねもう課長の挨拶と、さっきのはにおくんのプレゼンで私は出る幕がなくなってしまったのでどうしたらいいのかなっていうことをですねちょっと思ってしまったんですけれども、責任がありますので、やらしていただきますけれども、それでですね、私の今日の話ですけれども、始めにっていうところとですね、楯築遺跡の話をしますから、地元に来てるわけですからこの遺跡のことを話さざるを得ないということは、いいんですけれども、私は畿内の人間なんですね。第1回のフォーラムでは松木先生は何か「帥升」がどうのこうのとかですね、言われたということなんですが、私はそうとは思ってないんですけれどもそういうことを言うと袋叩きになるといけませんので、言ってしまいましたけどね、すいません、ということです。なので、弥生時代後期のですね、畿内社会のことについて若干ですね、お話をさせていただいて、吉備と畿内の比較を皆さん方にもしていただきたいということです。古墳はどうして出てきたのかっていうことが前半の話で、後半は私のタイトルにもありますようにですねこれから楯築遺跡どうしていくのかということについてですね。一応私も前職ではですね、全国の古墳だけではなくて、遺跡の活用に携わる機会がありましたので、皆様方のご参考になればいいかなと。これをやれとかですねこれがいいっていうことで言ってるわけではないんですね。皆様方の参考になるような話ができればということで、最後はですね、楯築遺跡の未来ははにおくんのためにではなくて、皆様方のためにというようなことも含めてですね、説明をですねしていこうとはにおくんははにおくんで頑張ってもらわないかんですけどね、よろしくお願いをしたいと思います。
私のタイトルでですね、「みんなで遺跡の魅力を発掘しよう」っていうふうに書いたんですね。これは大変重要なことだと思ってるんです。昨日私は楯築遺跡にですね、今日お見えですけども自治会長さんですかね、楠さんにもですね、ご案内いただきまして、久しぶりに行くことができました。早速発掘して参りました。後でこれはご紹介をしたいと思います。キーワードは楯築遺跡はお墓だということですね。我々、多かれ少なかれ、あっちに行くときがだんだんと近づいてきてるわけですよね。お墓のこともやはり考えないといけないかなということです。吉備の楯築遺跡ていうことで、この調査ですね、1976年から始まったということでこの辺のところはですね、もう皆様方ご承知のことだろうと思いますので、飛ばしていきます。考古学的にはですね、古墳とは何かというですね、重要なですねこの論争を巻き起こすことになって、これについては現在でもですね、決着がついていないっていうことですね。大きな墳丘を持つ墓は、弥生時代のお墓なのか、古墳なのか、大変重要な命題がこの楯築遺跡の調査で、湧き起こったということですね。これを一つ確認をしておきたいと思いますこれは考古学的な話ですね。行政的にはということでこれは市の方々の努力によって、おそらく岡山県の方々も加わったと思いますけれども史跡指定になったわけですね。重要な遺跡を保存したということ、この二つのですね問題っていうんでしょうかですね事柄がこの楯築遺跡の調査によって始まったんだということです。
この遺跡ですけど概要ということで、弥生時代の後期の後葉ということで、松木先生はだいぶあれですか、これ、すいませんね、ちょっと時間的な時期的にはですね2世紀の後半ですね、やっぱり時期についてはすいませんパワーポイントの方が、間違っておりました。でも墳長が83mということで、墳形はこちらに書いてありますように、いわゆる双方中円墳のような形をしているんだということですね。私はこのことについて、加えてですね、この立地、山の上に立地をしているんだということですね。このことを、今日は一つですね強調をしておきたいというふうに思います。これは後でも出てきますけれども、当時の人たちの他界です。来世じゃないです他界感がここに表れているんではないかということですね。中心埋葬ですけども、箱型木棺を伴う、木槨が作られたということで、この右下ですかね、右下にはですね当時のですね、状況が復元されているということです。
もう一つですね、楯築遺跡で重要なことっていうのはですね、埋葬したと、お祀りが行われたと、その後、使った物を壊すっていうことを行っていたということなんですよね。ここが、古墳の成立を考える上でもですね、私は重要なことではないかと、いうふうに考えているところです。これはまた後でご説明を差し上げたいというふうに思います。副葬品ですけれども、鉄剣首飾りで小型の玉類などが出てきたということで先ほどですね、赤色顔料、水銀朱ですね、を使って埋葬施設がっていうご説明もありましたけれども真っ赤っかですよね、埋葬施設はですね。これは、ここですね。これが埋葬施設で排水溝もですね、このような形で作られていて、まさにですね前方後円墳で行われている埋葬行為のルーツがですね、この遺跡お墓にはあるんだということですね。これが埋葬施設を拡大した写真ということで、鉄剣がここですね、玉類が副葬されていると、玉はどうなんですかね、これは着装された状態かもしれませんですね。鉄剣がこの棺の際にあるということで、九州であれば、後漢でしょうかね、前漢あるいは後漢の中国でですね、作られた鏡などが副葬されるわけですけれども、この楯築遺跡ではですね、鏡の副葬はなかったということですね。この辺もですね、どういう意味があるのか。これは考えていく上で重要なポイントになるのかなということですね、この遺跡の性格を考える上で重要なことだと思いますね。
様々な出土遺物がありますよということで、特殊器台を始めですねものがあるってことですね。これをご覧になっていただきましたらこれは人型土製品ですねと言われているものですけれども、割れてますよね。それから、土製の玉類ですけれども、勾玉とかですねこれは管玉ということにもなるわけですけれども、やはり、割られてると壊されているということがおわかりになっていただけるかなというふうに思います。
弧帯文石は、これは今ですね楯築遺跡の墳丘の上にもですね、大きなものが鎮座しているわけですけれども、この発掘調査でもですね、小型のものが出て検出されたんですけども、このような形でですね、もうバラバラになっていたと、これは岡山大学の当時の学生さんたちがですね、このような形にまで復元ができたということですね。これは立体ジグソーパズルによって復元がなされたということにはなるわけですね。
それから不明鉄製品なんですけれども錐状鉄製品というふうに言ってる方もいらっしゃるんでしょうかね。特徴はこのような形でL字型になってますけども、これは曲げてるわけですね。これなんかも少しひん曲がってますよね、これも本来はおそらく直線っていうか、まっすぐだったものが、役割がお祀りが終わったから、グニュっと曲げてるわけですね。これも鉄ですから、パンとは割れたりできないので曲げているということで、やはり本来の役割が終わったので、お役御免ということでもこういう形にはなったんだろうというふうに思運ですね。
このような形で様々なですね、墳丘、それから埋葬施設があって、副葬品があるということです。楯築遺跡には他地域からの影響を受けた要素が見られるんだということがですね、これが一つ大きな特徴だということで、副葬品、鏡の出土はなかったということではあるんですけれども、弥生時代のお墓にはですね、基本的には物は入れないんですね。九州が特別北部九州が特別なんですね。岡山でもですね、楯築遺跡が出現する以前、直前ぐらいまでの時期にはですね、ほとんど副葬品と言われるものはないんですね。楯築遺跡から、副葬行為が始まって、その後のお墓にはですね、副葬が継続して行われるようになった。また楯築遺跡が大きなですね、弥生時代の墓性を考える上で、ターニングポイントになった遺跡であるということ、これは間違いがないっていうことですね。
二つ目の特徴としては、吉備の伝統を受け継いだ要素、これも楯築遺跡に見られるんだということで、この特殊器台などがですね、この吉備の伝統を受け継いだ要素であるということです。そして三つ目はですね、新たに創出された要素があるということで、これは何といってもですね巨大な墳丘、これを一つですね、言っておけばですねもう十分ですね、これが前方後円墳、古墳に繋がる要素であるということですね。ですから、楯築遺跡には他の地域から受けた要素、影響を受けた要素と吉備の元からの伝統そして、新たにアレンジをして創出された要素、この三つが楯築遺跡の中にはですね、含まれているんだ、これが合体したものが楯築遺跡なんだということなんですね。吉備にはですね、こういう三つの要素をマネジメントするようなですね、コントロールするような地域の首長がいたんだということですね。これを吉備の、松木先生は帥升って言ってんですかね、そういうような形でそのとにかくですね、突出した人物が吉備にいたんだということですね。これを思わざるを得ないというか考えざるを得ないんだということですね。規模も、80mを超えるわけですから、弥生時代の中ではですね、最大っていうと、85m出てきたら2位になっちゃうでしょ。2位になったら何とかって誰かが言ったような気がありますけれどもだから最大級って言っておけば間違いがないわけですよ。ここはもうずっと1位でおられるからね。だからこれは最大級で言っていただいたらいいと思うんですけれども、いずれにしても弥生時代のですね、墳丘墓としては唯一無二の存在なんだということですね。
この点をですね、改めて確認をした上で、私が注目しているのはですね、山の上にお墓があるんだということですね。実はこのことも、吉備の特徴なんですね弥生時代の中期後葉からあるのかもしれませんけれども、後期になると吉備ではですね、お墓は山の上に作られるようなんですね。その延長線上に楯築遺跡も作られているということです。畿内の方では山の上にはですね、お墓は作らないんですね。平野の中で作られるということで、どうも少しですね、まぁ違いがあるようなんですけれどもこのことについて、当時の人々の死生観っていうんですかね、来世というと、あの世があったかどうかっていうのはこれはなかなか考古学的には証明が難しいんですね。弥生時代からあったんだっていうふうに考えている人もいれば、いや横穴式石室がね、こうもり塚とかさ、そういうところが古墳ができてきたからできてきてからですから6世紀ですね。6世紀に入ってからが来世観なんだ。という人もいてて、ここはまた人によって意見が違うんですけども、なので、来世観とは言わなくて他界観ですね。生の場と死の場、これの位置関係が同じエリア、同じエリアで構成されているのか、平野に生の場、山の上に死の場っていうものが使われるようになったのかっていうところですね。
岡山の場合には、吉備の場合にはそちら、後者の方だということ。畿内の方はどうも山の上ではなくて平野の方に死の場と生の場が作られていたようだということなんですね。そのことを考える上で、大変面白い場所が私にはあるんですねこれは平面図ですけれども給水塔がね、ここにあるわけですけれども、ここですね、これね本当に給水塔で作っていただいた方ねいいところに、給水塔自身がどうかっていう問題あるんですけども、作った以上はいいとこに作っていただいてるんですね。給水塔のちょっと外れたところに溝が掘られてるんですね。大きな溝がですね、ここですね。先ほどの復元図もですね、ちゃんとですね、ここに溝が掘られてるってことが復元図の中にもあるわけです。これなんでしょうね。これやっぱり、やっぱりというか、この同じ墳丘、丘陵上の上でもですよ。お墓の、こちらだからこっちが死の場っていうね、死の場と生の場を区切るここが境界なんだということを示す境目がですね、ちゃんと楯築遺跡を作った人たちの中でですね、そういう意識があったんではないかということをですね、考えさせられるわけですね。結界を作ったっていうことなんですね。これが発掘調査が行われたときの写真でちょっとカラーを用意できなかったんですけどここにですね、結界があるわけですね。残念ながらといいましょうか、今現在はこれ昨日の写真なんですけれども、このような形にはなっているんですけれども、今後こういうこともですね保存活用計画ですかね、の中で議論がひょっとしたら行われるかもしれませんけれども、ですから私としてはこの墳丘墓ですね、楯築遺跡もそうなんですけれども、側面としてはですね政治的なモニュメントとしての役割を果たしたという意味でも重要な遺跡というふうには思っているんですけれども、もう一つはですねお墓ですからねそもそもは楯築遺跡もですね、なのでお墓として、いろんなことが研究できるんではないかということですね。
こういう研究は、実はなかなか、見えないんですよね。見えないと、考古学者は、一応禰冝田も考古学の端くれなんですけどね。ちょっと躊躇するんですね。どこに証拠があるんだと禰宜田言ってみろとかっていうふうに言われるんですね。でもイマジネーションですね遺跡のことを考える上で、もちろん物証がなければ研究はできないんですけれども、イマジネーションっていうのもですね、大変重要なものかなというふうに思いますので、こういったようなことは、皆様方もね、この遺跡に立って、どんなどんなふうに考えたのかななんてことをですね、想像を巡らすだけでもですね楯築遺跡の人たちの心情を慮ることができるんじゃないかな、なんてことも。思うわけですね。そうすると、遺跡と自分とのですね、距離で我々はいずれ行っちゃうわけですから、そのときに 弥生時代の人たちはどういうふうに考えていたのか、自分たちはどうなんだとかですねそういったことにもですね、この遺跡というものがですね、楯築遺跡ていうものが、使えることができるのではないかということです。
それではですね、いよいよといいましょうかちょっと畿内の話をさせてくださいね。でもね、実は駄目なんです。肩身が狭いんです。畿内は駄目なんです。もうここにも書いてありますけれどもですね楯築遺跡が作られた頃の畿内はですね、お墓ないんですわ。でねさっきたくさんの鉄器あったでしょ、ないんですよ。私、実はあの鉄器の研究してるんですけどね。研究する対象が少なくても困ってるんですね。卒論のときからやってたのが40年経つんですけどね。学生時代少ないのはまあいいかなと思ってたんですけどももう、もうこの年になって増えないんですね。実は奈良県内で、鉄器が出ている件数、いくつか知ってますってご存知ないですよね。言いたくないんですけどね2点ですよ。それからね大和政権がなんていうことが言えるのかどうかっていう話なんですね。圧倒的に吉備の物的証拠は、優れているんだということなんですね。畿内に有力な政治勢力はなかったのかというとですね、実はそこが問題なんですね。墳丘墓が作られなかったということなんですねということなんですけれども、大きな墓は作られなかったということなんですけれども、これに関してはですね、共同体の力が強かった。あるいはですね、個人を突出させるような、社会ではなかった。これが畿内の特徴だというふうに考えてるんですね。いやでもねそんななんやったら、有力な人がおらんかったんちゃうんかと思いますよね。それが普通なんですね。なのに禰冝田は言い張ってるわけですよね。説得力あるように見えます。笑ってるっていうことは説得力がないと思ってるということですが、困ったもんなんですよね、でもこれが現実、考古学的な資料からすると、そういう現状があるんだということなんですね。唯一といいましょうか畿内を誇れる考古資料は何かっていうとですね突線鈕式銅鐸かなというふうに思うんですけどね。1m超えるようなですね、大型銅鐸が出るわけです。でその政治的な空白地に見えるような状態にしたっていうのはこれは、私は自らが畿内が畿内地域の人たちがその地域で社会を構成していく上でですね、そういうですね、個人の突出を抑えるような社会を、それぞれの地域で、そういう共通理解があって、弥生時代の終末までですね、暮らし生活をしていたというのがですね、これが畿内の特徴ではないかということですね。
銅鐸がせっかく出てきましたので少しご説明をしておきたいと思うんですけども、初期の頃の銅鐸ってのは小さいんですね。それがだんだんだんだんと大きくなっていって、この辺の銅鐸は紀元後2世紀ぐらいで、これはどうでしょうかね弥生時代の中期の前半ですから紀元前の400年ぐらいですね。ですから600年ぐらいの間銅鐸は作り続けられるわけですけども大きくなっている。初期の頃はこれは実際にですね、カンカンカンカンと言って銅鐸が鳴らされた状態、痕跡が銅鐸の中には見えるんですね。なので、聞く銅鐸というふうに呼んで農耕祭祀に使われていたであろうと、それが大きくなっていきますと、鳴らされなくなっていくんですね。地域首長のシンボルとしてですね作られたんではないかということです。これは文化博物館で、復元いたしました当時の農耕のお祭りの風景ですね、これを語れば、これだけで1時間は喋れるので、やりません。一度弥生文化博物館に来ていただきましたら、個別にご説明を差し上げますのでね。彼らもですね、恍惚な顔してますよね。そこは酒飲んでるわけですね。酒飲んで豊穣のお祭りをしているという見立てで作ったものですね。初期の頃はこのような形で小さい銅鐸で鳴らす痕跡があるんですけども、後半になるとこのような形で大きくなって鳴らさない眺める銅鐸になっていくんだということです。
吉備もですね、この楯築遺跡の近くに高塚遺跡っていうですね遺跡がありまして、やはりこの銅鐸が出てきてるんですね。これがその銅鐸なんですけれども、これ埋められるんですね。埋められてしまったということすね。この埋められた時期というのは、実は、こうやってうまくできてるなというふうに思うんですけども、もう楯築遺跡のときにはこれ埋まっちゃってるんですよ。ですから銅鐸っていうのがね、個人の突出を抑えるための役割を果たしていたんだということにという仮定で話をすれば、吉備の人たちもね、1世紀の前半かな。楯築墳丘墓が出現するまではですね、同じだったんですよ。同じ価値観を持っていたんですね。ところが、楯築墳丘墓ができる。帥升が生まれた頃になるかもしれませんね。埋めとるんですよ。
独自の価値観、吉備は吉備の価値観を持って、それで墳丘墓を作ったということになるわけなんですね。畿内からしたら、裏切られたわけですね。というふうに思ったかもしれない、そういう関係がね、足守川流域の中でもですね、あったかもしれないってことですね。これ、かなりリップサービス出てますんでただそういうね、リップサービスはわかりやすく言ってて、あれでもイメージとしてはそういうですね、銅鐸分布圏から離脱したのが、楯築遺跡、墳丘墓ができたということなんですね。楯築遺跡ができたんだということですねここは抑えておきたいなというふうにですね。
前方後円墳がどのように生まれたのかということですけども、これはですね、20世紀まではですね、畿内が舞台だったということで言われてたんですけども21世紀に入るとですね、畿内を抜きにしてなんですよ。残念ながらですね、キャスティングボードを握ったのが吉備だったということいずれにしてもですよ、畿内の立場は置いといてね、吉備が前方後円墳の出現に重要な役割を果たしたということにはもうこれ間違いがないわけですね。先ほどですねはにおくんがですね、ありましたけれども、吉備に起源のある特殊器台はですね、奈良県の多くのですね、古墳で認められるということですね。
やはり弥生時代の後期にはですね、このような形で地域ごとにですね、権力のシンボルっていうものが異なっていたというふうなことで、吉備と畿内は、弥生時代の後期の後半になるとですね、別の価値観を持つ社会になったんだということなんですね。ただしですね、箸墓古墳など、大和の前方後円墳は低地にあるんですね。しかも、物を破壊するという行為はないわけなんですね。
これですね。低地にある箸墓古墳はね、つまり、吉備がね、さっき吉備東遷説の話もありましたけれどもどっか、もし吉備が本当に東遷してきたんであれば、吉備のね、お墓作りをそのまま大和に押し付けるはずだと押しつけるって、反映させるという考え方も成り立ちうるんじゃないかなというふうに思うんすよ。でもそうじゃないわけです。物を破壊するという行為、これは古墳の中では認められないっていうことなんですね。それから箸墓古墳は低地にありますよっていうことですね。九州の方でもですね、鏡を割るですね。弥生時代の後期にはですね、ところが、楯築遺跡でもですね、さっき言ったように、お祀りに使ったものは割ってるわけですね。ところがですね、黒塚古墳というですね、奈良県でたくさんのですね、鏡が出てきた古墳があるんですけども、どうですか、完全な形をした鏡が、遺骸のね、木棺の周りを取り囲んでるということで、壊さないわけですね。ここの中の副葬品は一つとして、壊さないわけですね。
ですから、新たな葬送儀礼を大和政権は作ったんだということですね。先ほどね、吉備の規模で楯築遺跡の話でもね、新たに作り出したものもあって、三つの要素があるっていう話をしましたよね。それらはね、マネジメントしてアレンジをして、アレンジをした人物がいたんだと。それが吉備の王だったんだ。それが楯築遺跡の被葬者だっていうふうに言いましたけども、同じ理屈でいけばね、これをマネジメントしたのは誰なんだって言ったときに、いや吉備だけではなくて、大和もですね、それなりの役割を果たしていたというふうに考えることもできるのではないか。と思うんですがこの辺のところはですね、いろんな議論がありますのでこの辺のことにしておきましてとにかくですね、見えるもので言うと大和は肩身が狭いんだという話を大和から大阪なんですけれども、家は兵庫なんですけれども隣県となり隣から来たものがお話をしているこれが現状なんだということですね。
はい。それではですね、そういう遺跡をこれからどうしていくのかということですね、これについてのお話をしていきたいと思います。では史跡とはという話ですね、1981年に史跡指定になったと。史跡とは何ぞやということですけれども、これ、貝塚の塚はね、法律ではね、ひらがななんですね、禰冝田さん間違ってるな、なんで漢字にしないんですかということは言われるんですけれども、これ、あの法律ではひらがなになっている。わざとな意味がちょっとわかんないんですけども、なぜそうなったかはわからないんですけども貝塚とかですね集落跡、お城、古墳など、遺跡のうちで歴史上、学術上価値の高いものが史跡指定になるんだということで2023年今年度現在で1888ヶ所があるということですね。遺跡全国で47万ヶ所ありますので、史跡っていうのはですね、考古資料の1%にも満たないってことですね。それだけ貴重なものが、貴重なものなんだっていうことをですね、改めて確認をしておきたいと思うんですね。多くの場合、史跡指定が行われると、こういう顔して史跡公園になると、整備をして、地域住民の方々の憩いの場として活用されると、楯築遺跡の場合はですねこの給水塔っていうのが大きな課題だったわけですけれども、とにかくですねそれを撤去するっていうですね英断が下されたということですね。
楯築遺跡の、すぐ横にはですねこういう造山古墳っていうのがあるわけですね。昨日行ってきましたけれども、立派なですね、整備が行われているこれがということですがガイダンス施設もありますね楯築遺跡これからどうしていくのかっていうことですよね。最終的にはね、やっぱ重要なことはですね、憩いの場になるということではないかなというふうに思うんですよね。ただし、楯築遺跡の場合には、山の上にありますよね。なので、なんていうか、散歩コースとしてはいいかもしれませんね。でもなんて言いましょうかね。ちょっとね、年配になっていくと上がるのがしんどくなるっていう、そういう方も中にはいらっしゃるかもしれませんね。そういう方のためにどうしていくのか、なんてこともこれからもですね、知恵の出しどころになるんでしょうかね。
撤去される給水塔、これもですね、どうやってね、撤去するのか。例えばこれもね、撤去する単に撤去するんじゃなくて皆さん方とか地元の方々にとっては、これがなかったら生活できなかったわけですよね。そうすると、何か決別の集いみたいなのをね、やるとかさ、なんかねこういうものもね、史跡、やっぱ役割があったわけですから、そういうものもね、一つのイベントとして生かすっていうこともですね、これからやっていってもいいんじゃないかななんていうふうに思うんですね。ただし、倉敷市だけの問題ではなくて、日本全体がですねこれから人口減少社会に移るんだということなんですね。これを忘れてはいけないんですね。これ2030年というか確か2045年に1億人を切るっていうことにもなってるんですかね。はにおくんは13歳ね、ですからはにおくんが僕ぐらいの歳になるときにはどのぐらいの人口になっているのかというとですね、これ結構ね、ということですよね。避けて通れないことはやはり念頭に置かなければならないね。我々は逆に我々の世代は、残念ながらその世界見れないわけですよ。幸か不幸か見れないでも、だから、やっぱり持続可能な整備はどうしていくのかということを、やっぱりそれは考えた方がいいと思うんですね。それは、あのようなあのようなっていうのは、造山でやられたやり方が整備のやり方の一つのやり方ですよ。でもそれだけじゃないんだということですね。いろんな選択肢があるはずで、それを皆様方が考えて行かれるっていうことが必要かなというふうに思うんですね。
楯築遺跡は皆さん、未来は皆さんの手にあるんだということで、そもそもですね、史跡って誰のものなのかっていうことですね。倉敷市のものでしょうか?違うんですね。学者のものなのか、これも違うんですね。これは皆さんのものなんですよね。文化財っていうのは国民の共有の財産なんですね、行政はね、田中さんはね、皆様方のためにね、ただ役割として予算取ってもらわないと困るわけですね。そういう事務的な仕事を文化庁とかですね、県とか市はやってるわけね。それは皆様方のためにやってるわけなんですね。ていうことはね、皆さん方にも何かいろいろやっていただく。ことができることがあれば、そういう何らかの形で協力をしていただくということ、これが重要なことではないのかなというふうに思うんですね。はい、いいたいことはですね、遺跡にはですね様々な価値があるんだということなんですね。もちろん、考古学的な価値があるから史跡指定になったわけですけれども、でもね、どうですか皆さん方の周りに遺跡好きの方ってどのぐらいます。うちのかみさんは嫌いなんですね。本当に関心ないんですよ、本当にね。夫婦でもそうですからね。お友達にも史跡好きの方の方が少ないんじゃないでしょうかね。ここ現実だと思うんですね。なので、神社跡が素晴らしいとかね、墳丘からの眺望が素晴らしいとか、森が素晴らしいとかですね、いろんなことを考えるために、あの山の上に遺跡好きでない人を連れてきて連れて行っていただきたいんですね。ほんなら遺跡こんなことがあるんだっていうことを、気づくかもしれない。やっぱり遺跡って面白いんだなっていうことを再認識するかもしれないですね。それはわからないけどね。とにかく皆さん1人1人が楯築遺跡の価値を発掘してほしいなと思うんですね。なんか飽きられて何か夫婦でね好きな奥さんに好きでないお父さんが連れられて、ここに来て、来てもらえるみたいですね。重要です。こういうことが重要なんですよ。でね、ちょうどやっぱよかったですね。よかったです。でも私はですね、この木が良かったね、これ。木は楯築遺跡が作られたときにはないんですよ。ないんだけれどもね、やっぱこの木がですね、風にですね、心地よい音をですね鳴らしてたんですね。それは他界っていうものを実感。したくないんだけれども実感できたかなと思うんですね。これ一つ魅力かなと思うんですね。
それから、地べたですね、そこにはですね、礫が見えるんですね。これこういうやつですねこれ、埋葬の後に、ね、石を盛り上げた復元復元図がありありますでしょ。埋葬後に発掘もしているんですけどもその残りがですね、実際の目に見えるんですね。これ、実物ですよ。楯築の人たちが葬ったときの石が見える。もちろん墳丘のね、区画する石も見えるんですけど、生のものが見える。これはなかなかね迫力があるんじゃないと思うんですね。葬送の名残を見ることができるんだっていうことですね。はい。今後もですね、楯築遺跡、そこが私が楯築をですね、改めて感じたときに、この自然の素晴らしい楯築という森の素晴らしさっていうことですね。それと、当時のものが、生のものがそのまま見えるっていうことですね。見えるだけだったら、他のところでも見えるかもしれない、横穴式石室とかね、そういうとこでは見れるところもありますけれども、弥生のお墓で、その当時の葬送行為が、の残骸でもですよ、生のものが見えるっていうのは、これはここだけじゃないですかね。私はこの二つがですね、楯築遺跡の魅力かななんていうことを思った次第です。
今後もですね、楯築遺跡はもう史跡になりましたから保存されるとこれは半永久的にということですね。ただし、人口減少社会だというこの現状ですね。これまでもですね、史跡など文化財保護には市民の方々はいろんなところでボランティア活動とかね、ここの中にも書かれておられる方がいらっしゃると思いますね。いろんな立場でですね、関わっていただきましたけれども、人口が減ると、当然公務員の数も減っていくわけですね史跡の数はまだまだ増えていくわけですね文化庁は頑張ってですね、史跡とか建造物とかいろんなものをですね、文化財増やそうというふうにしてるわけですね岡山県も総社市も、倉敷市も岡山市も同じなんですね。そうなってくると、これはますますですよ。市民の皆様方の力が重要になってくるんだっていうことですね。地域住民の方々の積極的なですね、参加じゃなくて参画ですね、これが求められるのではないかなと。いうふうに思います。
こっからが少しですね、全国の事例ということで地域住民、史跡っていうのはですね地域住民にとっての誇りとなるってことね、これは皆さん方ね、もう楯築遺跡は誇りですよね。だと思うんですけれども、これはですね、修羅山遺跡って言ってですね中世の山岳寺院ですね山にお寺が作られるね。難しいでしょう。山にお寺があってなんてさ、それをですよ小学生がいろいろ勉強したらですね、修羅山遺跡ってすごいって言って私達の白山遺跡ってこれ子供が考えた言葉なんですね。こういうことまでですね、子供っていうのは、成長遺跡で成長できるんですね。これすごい素晴らしいな。小学校の校舎にはですね、修羅山遺跡に関するモニュメントがですね、代々残されてるってことね。ここの地元の小学校に行ったらもう修羅山遺跡のことはもう地域学習の中心になっていくんですねそういったこともありますね。
あるいはこれは徳島県の鳴門市で古墳が史跡指定になったんですけども、年に1回ではあるんですけども子供たちがですね、遺跡の紹介、自分で勉強して、もちろん監修はチェックは教育委員会の方がしますけどね。大人向けにですね、説明するんですね。これこういうこのとき石野博信さん、先生ってご存知の方がひょっとしていらっしゃるか、石野先生に向かって堂々と説明してたんですね。やっぱりいいですよねそういうね、先生もこうやってね、後でね、あの人はあの先生はこんな人だっていうふうに聞かされてるはずなんですよね誇りに多分思っているんじゃないですかね。
子供たちだけではなくて地域住民の方々もいろんな形でですね参画をしていただく、これはお城が史跡指定になっているところの地域住民の勉強会の様子ですね。
これは古墳ですけれども古墳の整備ですね、古墳の整備を地域住民の方々が葺石はってるのはですね地域住民の方々なんですね。もちろんマネジメントする人には土木の専門家はいるんですけれども、労働部隊は地域住民の方々ですね。淡路島でですね、弥生時代の適正先?豪が出てきたんですけども、地域おこしの一環でですね、地域住民がいろんな活用、意見交換会、こんなもん、ええんやろかとかってね、いうようなことでいろんな意見交換が出されましてですね、市民主催でですね、史跡指定地でごっさ祭というですねお祭りをしてるんですね。この白髪の方が市の担当者で、市の担当者は何もしないんですよ。もう地域住民の方々がやってて、ただし、お客さんで参加してくれって言ってきてるわけなんですね。あるいは福岡県でもですね、吉野ヶ里遺跡に匹敵するよりも多い副葬品が出てきたっていうことで市民が感動してですね、自分たちで何ができるかっていうことでね、後ろに立ってるのがですねこの市の職員なんですね。これもやっぱり地域住民がやってるっていうですね最終的にはですね、芝生を植えて芝生もやっぱりこれ、自らが植えていってるわけですね。
最終的にはこのような形で史跡公園になってるわけですけれども、ということですね。なので皆様方が何ができるのかって考えていただきたいということですね。やっぱり行政の中もやっぱりね、一体化っていうことでこれはまず砺波市なんですけどポロシャツね、2800円なんですけれども、作って一般の市民にもこれ頒布できるような形にして私だから2着。持ってるというか、皆さん買えますよねと買うよ買うよとかって、一つはやや2個買うよとかって2個買ったんですね。色違いでね、いやでもさ、ね、これで一つなりますよね。なんかこういうこともやっていかれたらいいかなと思うんですよねいろんなことができるとアイディアはいくらでもできると思うんですね。さっきの古代衣装ね、うん。着たいですよね。ちょっと僕恥ずかしいんですけど、ちょっと恥ずかしいけど、いや着ろって言ったら着るしね。さっきの卑弥呼の館の卑弥呼のあれなんかは館長ですから、卑弥呼になるときもあるんですよね。やめときましょうもう、もう時間が来てしまいましたけどね。
このような形で市民の憩いの場ね。赤ちゃんがね、こんな感じでね、赤ちゃんちゃうわ幼児やね、赤ちゃんじゃないですね。ということですね。古墳の場合は名古屋なんですけれども、ちょっと離れたところのカフェのマスターがですね、古墳に魅入ってしまいましてですね、カフェにパンフレットを置いたりとかですね、古墳ケーキセットね、周溝にこんなね、楯築饅頭とか楯築最中とかさ、こんなありきたりですけどね、できるんじゃないかなということですね。
はい。これで史跡の意義を改めて確認をしておきたいと思うんですけれども、地域の歴史文化の特徴を語る物的証拠なんだっていうことですね。それを半永久的に保存をしていくんだっていうことですね。それは、結果として、郷土愛の醸成になって、地域の活性化に寄与することになるだろうと、観光活用もできるだろうということですね。これから楯築遺跡に期待されることとしては追加指定は多分必要になってくると、これは皆様方にはちょっと直接は関係ないかもしれませんけれども、皆様方も含めてですよ今日的な観点での調査研究もですねこれ是非していっていただきたいなということですね。今日は伊東市長はまだこられてませんですかね、文化財部局弱いんですね立場がね。市全体で遺跡を活用する位置づけをしていってほしいし、他にもですね、倉敷市は文化財の宝庫であるということで、いろんな形でのコラボレーションができるということですね。
とにかくこれです。地域住民皆様方にお子さんも加わってですよ、行政、そして大学等の研究者この3者がですね、三位一体となってた楯築遺跡の活用を目指していっていただきたい。最終的にはですね、地域作りの核として楯築遺跡というものを位置づけていっていただきたいんだということですね。市民の皆さんがね、倉敷市をうまく連携をして、大学等のですね、研究者を巻き込んでいっていただいて楯築遺跡をですね、地域の財産として次の世代に繋げていっていただきたいというふうに思います。ちょっと3分延しましたけれどもどうもご清聴ありがとうございました。次はぜひ大阪弥生文化博物館でお待ちしておりますのでよろしくお願いいたします。