第3部 パネルディスカッション
コーディネーター 岡 將男
楯築ルネッサンス副代表、NPO法人公共の交通ラクダ(RACDA)会長
1954年 岡山市生まれ。附属中2年の時、造山古墳に行き「全国四位なら大王陵だろう」と確信、この時千足古墳石室に入る。東京大学経済学部在学中は、中国語を選択、シルクロード歴史地図の作製、吉備の古墳巡り、マヤのビラミット巡りと鉄道模型レイアウト制作に没頭。文学部考古学特殊講義単位取得(甘粕健講師)。 1977年湯迫車塚古墳を再現した「ゆうなぎ鉄道」を鉄道模型趣味に掲載、吉備路の風化花崗岩を表現する。卒業後全国を営業で回る傍ら古墳巡り。1985年よりまちづくり運動に参画、内田百閒阿房列車、京橋朝市、うらじゃまつりのトロッコレース、岡山城築城四百年など岡山を楽しくする運動を展開。 1995年以来、交通まちづくり全国ネットワークを主導。各地の鉄道存続に「交通まちづくり運動」を提案。吉備線LRT化を前提としたMOMO導入では、文藝春秋で「タフネゴシエーター」と紹介される。「ロビイスト」(交通)を名乗る。公共交通充実と地域の歴史資源発掘が、地方都市の人口増加を牽引するというのが信条。今年「クリーンモバイル岡山倉敷連星都市圏3」を発刊。 倉敷考古館の家形特殊器台に大学時代から注目、楯築遺跡の模型復元、吉備古墳図鑑の制作など、市民に呼びかける運動も展開。この4年は日本の古代史研究で中国の通史への理解が足りないと痛感し、「資治通鑑」69巻~177巻の書下し約250万字を公開中。 ドラゴンクエスト3の「遊び人」に感動するゲームオタク。会計学ゼミの経験から、ゲーマーなどの「オタクの社会化」が、「付加価値が一番高いのが文化」の一部として、将来日本社会の重要産業になると説く。 著書・「岡山の内田百閒」1989年、古代史小説「勾玉の首飾り」1992年連載、「吉備邪馬台国東遷説」2014年、共著・「路面電車とまちづくり」1998年「バスマップの底力」2010年「脱原発の市民戦略」2012年等。楯築ルネッサンス副代表、NPO法人公共の交通ラクダ(RACDA)会長 1954年 岡山市生まれ。附属中2年の時、造山古墳に行き「全国四位なら大王陵だろう」と確信、この時千足古墳石室に入る。東京大学経済学部在学中は、中国語を選択、シルクロード歴史地図の作製、吉備の古墳巡り、マヤのビラミット巡りと鉄道模型レイアウト制作に没頭。文学部考古学特殊講義単位取得(甘粕健講師)。 1977年湯迫車塚古墳を再現した「ゆうなぎ鉄道」を鉄道模型趣味に掲載、吉備路の風化花崗岩を表現する。卒業後全国を営業で回る傍ら古墳巡り。1985年よりまちづくり運動に参画、内田百閒阿房列車、京橋朝市、うらじゃまつりのトロッコレース、岡山城築城四百年など岡山を楽しくする運動を展開。 1995年以来、交通まちづくり全国ネットワークを主導。各地の鉄道存続に「交通まちづくり運動」を提案。吉備線LRT化を前提としたMOMO導入では、文藝春秋で「タフネゴシエーター」と紹介される。「ロビイスト」(交通)を名乗る。公共交通充実と地域の歴史資源発掘が、地方都市の人口増加を牽引するというのが信条。今年「クリーンモバイル岡山倉敷連星都市圏3」を発刊。 倉敷考古館の家形特殊器台に大学時代から注目、楯築遺跡の模型復元、吉備古墳図鑑の制作など、市民に呼びかける運動も展開。この4年は日本の古代史研究で中国の通史への理解が足りないと痛感し、「資治通鑑」69巻~177巻の書下し約250万字を公開中。 ドラゴンクエスト3の「遊び人」に感動するゲームオタク。会計学ゼミの経験から、ゲーマーなどの「オタクの社会化」が、「付加価値が一番高いのが文化」の一部として、将来日本社会の重要産業になると説く。 著書・「岡山の内田百閒」1989年、古代史小説「勾玉の首飾り」1992年連載、「吉備邪馬台国東遷説」2014年、共著・「路面電車とまちづくり」1998年「バスマップの底力」2010年「脱原発の市民戦略」2012年等。
パネラー
伊東 香織 (いとう かおり)
プロフィール PROFILE
学 歴
平成2年3月 東京大学法学部卒業
平成5年6月 米国ハーバード大学ロースクール
(法律大学院)修士課程修了
職 歴
平成2年4月 郵政省採用
平成13年7月 総務省インターネット戦略企画室長補佐
平成15年4月 倉敷市総務局長
平成16年7月 倉敷市収入役
平成19年8月 総務省国際部多国間経済室長
平成20年5月19日 倉敷市長就任
平成24年5月19日 倉敷市長2期目就任
平成28年5月19日 倉敷市長3期目就任
令和2年5月19日 倉敷市長4期目就任
令和6年5月19日 倉敷市長5期目就任
大森雅夫 (おおもり まさお)
プロフィール PROFILE
略歴
1954年 岡山市東古松に生まれる
1972 年 岡山県立岡山操山高校卒業
1977 年 東京大学法学部 卒業
1977 年 建設省入省
2012 年 国土交通省国土政策局長
2013 年 国土交通省を退官
2013 年 岡山市長選挙 初当選
2017 年 岡山市長選挙 二期目当選
2021 年 岡山市長選挙 三期目当選
しばた ゆり
プロフィール PROFILE
1960 兵庫県に生まれる
京都市立芸術大学美術学部
1992 2010 ヒロ・チカシゲギャラリー(岡山)他
2006 滞在制作「Force of Nature」Van Every / Smith Galleries atDavidson College (ノースキャロライナ、アメリカ)
2007 mot annual 2007「等身大の約束」東京都美術館
2009 高松コンテンポラリーアート・アニュアル
-時をつなぐビジョン- 高松市美術館(香川)
楯築遺跡とアートの関係はどういうものなのでしょうか。古代史にあこがれを抱いている私が楯築遺跡の フォーラムにアートの作り手の立場で初めて参加させて頂きます。
私は誰なのか?私はここにどう存在しているのか?という問い掛けに手探りの回答 を探して現代美術として発表しています。
主な作品は、両手の上にその人の大事なモ ノを置いてもらい写真やビデオを撮る「わたしのモノ、わたしとモノ。」、埃を顔料 に一枚ものの版画を地層のように並べる「ダストプリンツ」、絵の具では無くモチー フから絵の具を作り描く「マテリアルカラーズ」など。
光本 順 (みつもと じゅん)
プロフィール PROFILE
2012年10月 – 現在 岡山大学, 大学院社会文化科学研究科, 准教授
2022年10月 – 2023年3月 カリフォルニア大学バークレー校, 人類学科, 訪問研究員
2019年10月 – 2023年3月 国立民族学博物館, 共同研究員
2019年4月 – 2023年3月 島根県古代文化センター, 客員研究員
2007年4月 – 2012年9月 岡山大学, 埋蔵文化財調査研究センター, 助教
2000年4月 – 2007年3月 岡山大学, 埋蔵文化財調査研究センター, 助手
学歴
2001年4月 – 2004年9月
岡山大学, 文化科学研究科, 人間社会文化学専攻
1998年4月 – 2000年3月
岡山大学, 文学研究科, 史学専攻
1994年4月 – 1998年3月
岡山大学, 文学部, 史学科・考古学
委員歴
2023年11月 – 現在楯築遺跡保存整備委員会, 委員
その他多数
< 岡 >
楯築ルネサンスの副代表やっております、岡将男と申します。今日はちょっとピンチヒッターということですね、私も多少慌てているんですが、頑張って司会を行いたいと思います。それではまずパネラーの皆様をお呼びいたしますので、ご着席ください。
岡山市長・大森雅夫様、倉敷市長・伊東香織様、続きまして、現代美術家・しばたゆり様、続きまして岡山大学考古学研究室准教授・光本順様。最後に、先ほどご講演をいただきました禰冝田先生にもですね、加わって議論を進めたいと思います、どうぞよろしくお願いいたします。
早速ではございますが、今日本当、私もですねピンチヒッターになっておりましてですね、全体の企画はずっとこうやってきたり、楯築のルネッサンスとかやってきたんですけれども、私自身の紹介は先ほどのプロフィールに緊急に入れております。50数年前からですね、考古学に興味を持って、そっちの方には行かなかったんですけれども、吉備の古墳凄いなということで、どうしてこれがあんまり評価されてないのかなと、そういう意味ではですね、今日倉敷に乗り込んで楯築ルネサンスがやれるということがまず我々にとって非常に大きな喜びだということなんですが、まず禰冝田先生、これだけのメンバーが揃いました。いかがでしょうか。先ほどの講演の中でもね、ちょっと(吉備は)最強になってきたんじゃないでしょうか?
< 禰冝田 >
いやこの、いろんなところでこういう企画あるんですね、これねすごいのは、市長が、すいません呼び捨てですが、市長が2人も出ている。普通はね出ないんです。すごいありがとうございます、ありがとうございます。(拍手)これはやはり楯築ルネッサンスの力じゃないですかね。それと、芸術家の方もこの場に来ている。これもなかなかないんですね。(拍手)そして、満員の皆様方がいる、やっぱこういうあの企画、私も冒頭言いましたように何回もあるんですけども、ちょっと初めてなんですね。なので、これからどういう議論が行われるのか、大変楽しみにしております。皆様方もぜひお楽しみいただければというふうに思います。こんなんでよろしいでしょうか。
< 岡 >
ありがとうございます。ということで今日は大いにリップサービスもしていただけると思いますが、さてですね、実はですね1月のフォーラムで、松木教授にですね様々なお話をしていただきました。そしてその内容がまさにですね、最近出た「巨大古墳の古代史」、9月22日発行です。これ宝島社でしょうかね。巨大古墳の中に、なぜかですね、松木先生が楯築を書いてるんですよ。最近ですね、富雄丸山古墳ですかね。でっかい鏡って言っても縦長の鏡とかね、大きな刀が出てきたということでねもう一躍NHKでもこの前放送やってましたけどね。それと並んで巨大古墳の中に、なんと楯築をね、松木さん書いちゃってましてね、こういう本の中に初めてなんか帥升(後漢書に出てくる最初の倭国王)だと、書いちゃったんですね。今日、実は打ち合わせやってるときにね、考古学の先生お2人が「えっ、そんなこと言ったんですか」みたいなね、これね私も長く勉強してきましたけど、元々楯築は200年(頃の築造)とか言ってたんですよ。それが最近は大体175年ぐらいですね。ですから10年前に「吉備邪馬台国東遷説」を私が書いたときも、175年と想定して、その175年ぐらいに卑弥呼が生まれて181年に諸葛孔明が生まれて、みたいなね、そうすると何か俄然ね三国志と繋がってくるわけですよ。で200年にね、戦い(官渡の戦い、曹操と袁紹)があって、208年に赤壁の戦い(曹操と孫権、映画レッドクリフ、諸葛孔明と劉備登場)とかあるとかね、そういう時代なんですよね。
ところが松木さんは、唯一、一人150年ぐらいかなみたいなね。この20年ほどは重要なんですよね。まだまだこれは決着がつかないと思いますけども、この1月のシンポジウムで、楯築のことを「この人は只者ではない」と、この本の中にもそのように書かれてます。それから大量の朱だとか、モニュメントを作るというね、先ほどの禰冝田さんのお話にもありました。そして、「国の重心が移動する途上で、列島を掌握したのが帥升だったとする」というね、この楯築ではないかということを主張されていると。そういう中でですね九州の甕棺墓の時代が、大和の前方後円墳の時代になっていくと、今までですと第一段階第二段階と言ってたんだけども、この楯築のところを第二段階と呼ぶべきだろうと、それはやはりですね、弥生墳丘墓とまさにですね、楯築を掘られた近藤義郎教授が、古墳と区別されたと。今でもね、楯築古墳という学者さんはおらっしゃるんですよね。でも、それを弥生墳丘と付けちゃったことによって、逆に古墳のルーツは岡山じゃなくなったところはあるんだけども、これはある面で大きな見識だったと思うんですね。
その意味で改めてですね、国の重心が移るときに、甕棺墓から吉備・出雲・丹波なんかの墳丘墓の時代が、一瞬あるということですね。この意味が非常に大きいということで、彼は倭国王だったかもしれないっていうね。そうおっしゃってるんですね。そういうことでですね、松木教授曰く、この時期「宗教革命」があった。いうことをおっしゃってるわけですね。この本の中でぜひ皆さんもですね買い求めていただきたいんですけども、巨大古墳の中に楯築入ったなということで感動しているわけですが、さて、まあ最初にですね日本列島最大、最大規模ですかね。最大級ですね、の墳丘墓を築いた時代、楯築墳丘墓のある、倉敷市の伊東市長からまずですね、この1月に給水塔撤去という方針をね、決められたことなどについてですね、その後の様子を含めてお話いただければありがたいです。
< 伊東 >
はい皆さんこんにちは。ご紹介いただきました地元の市長でございますよろしくお願いいたしますどうも。(拍手)名前を言っただけで、こんなに拍手をいただけて、ありがとうございます。地元の市長でございまして、先ほど禰冝田先生のご講演の後半部、今ここの会場に市長が来てないみたいだけど、こういうものをやってもらいたいなと思ってるんだけども、っていうあたりからおりましたのですね。ありがとうございました、はい。そうですね今日ですね倉敷市民の方もたくさんいらっしゃってるのはわかるんですけれども、ちょっと手を挙げてみて、まず岡山県民の方、はい、ありがとうございます、はい、岡山県外から来てくださった方、結構たくさんいらっしゃいますね。ありがとうございます。あの、倉敷市民の方、ありがとうございます。大体感じがわかりました。ありがとうございます。はい。ちなみに1月のフォーラムにも、岡山大学であったときにもご出席をされた方、わかりました半分ぐらいですね了解いたしました。
今日はそのあたりも踏まえてちょっとお話をしていきたいと思うんですが、私が昨年の6月にですね、議会で、楯築遺跡の給水塔を今後倉敷市として取ろうと思っている、という話をさせていただいたあたりから、この古代のですね、学会の皆さんたちそれから、ファンの皆さんたちが大変盛り上がっていただきまして、そして一体いつ取るんだと。いうところを早く言ってください、という雰囲気が非常に盛り上がりまして、やむなくじゃないですけど、今年の1月のですね、フォーラムで、これはもう岡山大学の学長でいらっしゃいました、牧野先生がこのフォーラムの会長でいらっしゃいますので、そのときに発言しなきゃと思いまして、至急うちの文化財のみんなといろいろ相談しまして、何とか令和6年度までに、今の給水塔をですね、何とか取って、そして7年度から取りかかれるようにしたいということを1月に言いましたところ、山陽新聞等等で多く大きく取り上げられまして、大きな社説も載せていただきまして、これをもっといよいよちゃんとやらないといけない、という状況になりまして、今ですね実は、ちょうどこの令和5年のですね、10月から楯築遺跡のところの給水塔のですね、を取るためにまずしなければいけないのは、その給水塔がなくなってしまったらあの、地区の皆さんの水道が供給できないもんですので、それを安全にまず供給できるような、別のところにですね、給水塔のちょっとこじんまりした分を作らないと、この給水塔が取れないんで、ということで、その工事を取りかかり始めましたのが、この令和5年の10月から取りかかり始めました。
ですのでその給水塔移設するという事業を、今取りかかり始めたという段階となって参りました。今の計画ではですね、令和6年度中までには、その計画を進めましてですね、だから新しい給水塔を完成して、運用開始をすれば、まずはその素地ができるという段階となってまいりました。これも皆さんご存知のように、昭和51年からですね令和元年まで7次に渡りまして、岡山大学様近藤先生初めですね本当に多くの先生方が、大変な調査をしていただきまして、そして、これで多分すごく早い時期に国の指定になったと思うんですけど、昭和51年から発掘調査を始めていただいて、その5年後のですね、もう始めてから何年後かの段階で、その中核部分を国の文化庁が、国の史跡に指定をしたということも、発掘し始めたらこれはもう大変なものが出たということになったんじゃないかというふうに思います。
それでその貴重な資料は岡山大学の方にも、大変たくさん保存をしていただいているということでございますが、今ですね、私達が先ほどの禰冝田先生のお話の中にもありましたけど、地元の人たちが、もちろん遺跡を守っていただいております、地元のですね、楠さん初めとしてですね、地元の方のおかげでございまして、今地元では、この楯築遺跡が大変注目をされているということを、地元の人たちなど、一番地元の人たちそれから、これ小学校区は庄小学校というところでございますが、そこの子供たちも、この前、実は庄小学校の150年記念式典がございました。そのときに私の市長の挨拶もですね、この楯築遺跡のことを中心にいたしまして、話をしまして、子供たちにこの自分たちの場所っていうのはもう当時から、当時ってのも当時150年前ではなくて、もうあの、このまさにこの弥生時代の一番早い段階からもう大陸と交易があってですね、今の新幹線辺りが通ってるところは、新幹線を作るときに、発掘調査をしたらもう大変たくさんの貝塚が出てきて、そして港の遺跡、今のRSKバラ園あたりのところですね、港の遺跡が出ていてここら辺までが海だったと。だからここと、もう国がですね大陸と交易していたからこそ、ここの楯築遺跡の中に埋葬されている方の、その木棺のですね下に水銀朱がですね30何キロも出てきて、これは大変な人のお墓だということがわかっている位ですね、ここはもうすごい大陸間の交流の中心でもあったということなどなどを小学校の記念式典で、市長はそんなに長くなかったんですけど、長くないのでちょっと話をしまして、小学生たちが、それでもみんな知ってるんですよ。学校の小学校の校長先生のところの前にあるですね、あのガラスのケースの中にその発掘されている。いろんなその、あの土器のようなものもありましてね、それを本物は岡大にありますとかって書いてありまして。ですねみんな知っております。
ですので、楯築のことがまた非常に注目を浴びてきているということをみんな喜んでおりますし、本当にですからこの機会っていうのは素晴らしい機会だということでございますので、またその住宅の開発があったわけですけれども、その給水塔撤去できるつまり、あの給水経路とかいろいろ代えるようなですね、他の配水池の整備などなど進めることによって取れるようになった、他のこの新しい給水塔を別のところに支障がないところに置きましたら、住民の皆さんにまず安心安全の水も提供しないといけないもんですので、それを6年度までにします。
ということと、今合わせましてですね、ちょうど2週間前の11月の12日からですね、この楯築遺跡のこの活用のですね、保存活用審議会を立ち上げていただきまして、学者の先生方から、どのような形でですね、11月12日日曜日なんですけど、「第1回楯築遺跡保存整備委員会」を開催をしまして、松木先生も委員でいらっしゃいますし光本先生も委員でいらっしゃいますし、それからうちの元の埋蔵文化財センターの所長、福本さんも委員でありますし、それから市の文化財関係の審議会の尾崎先生ですね。それから宇垣先生も初めとしてですねそれから、委員の先生になっていただきまして、大変熱心な議論がですね、どのような形で給水塔をどこまでまず取るのか、というあの岡大さんが発掘したときにどこまでが発掘されているから、そのつまり今給水塔があるわけなんで、ある下には何もないと思う。だからそこじゃなくて、その区域のここら辺のところが、発掘を今後していったら、また新しいのが出てくるかもしれないんじゃないかなどなど、大変なね、この熱のある、審議会が1回目行われたというところが最近の現状でございます。
それからですね、今文化庁の課長さんもおられておりますけれども、その後の反応ですけれども、文化庁の方からは、「倉敷市が給水塔を取ることになったのは大変喜んでいる」というコメントがありました、それからですね、地元の磯田道史先生、これ、倉敷市英断だと、いうことがありまして、それから地元関係者考古学の皆さんたちがからは、倉敷市はよく決断したと頑張ってもらいたいそういうコメントをいただいております。とりあえず以上でございます。ありがとうございます。(拍手)
< 岡 >
ありがとうございます。全国からおいでの皆さん、ご安心ください、進んでおります。本当に英断だったと思います。小学校区で、本当にね、お話そこまでしていただくって本当にありがたいことですし、今後はもうどこの小学校行ってもこの話だけしてほしいなと思いますので、ぜひよろしくお願いしたいと思います。また委員会にもね一昨年、2年前に50年ぶりに報告書をまとめられた宇垣先生も入っておられるということで、これはやっぱりこっから先、本当に慎重な発掘、大変だと思うんですよね、ぜひ頑張っていただきたいと、よろしくお願いいたします。
さてですね、吉備がまず最初に、ひょっとすれば首都だったかもしれない。そしてその次のときに首都だったかもしれないのが造山古墳の時代なんですね。巨大古墳がまさにできたとき、それまで大体290メーターぐらいまでの前方後円墳はあったんだけど、いきなり2割増ですね350メーターの造山古墳もね、同規模の10メーター違うかどうかわかんないんだけども、大阪のですね履中天皇陵、石津ヶ丘古墳って言うんですけども、これはですねなんと世界遺産になってましてね、何で造山古墳ば世界遺産じゃないんやと、大阪弁で言えばね、そう思えるところなんですが、これはもう(造山古墳が大王墓だと)絶対大王墓だっていうね、ことをおっしゃってる方もおられますし、それからですね、応神天皇じゃないかと私も書いたわけなんですよね。さて造山古墳は今ね、高松城水攻め当時の毛利陣地の遺構があるということで、発掘が進んでおります。
古墳発掘とは言わないところがやっぱりこうね、岡山らしいのか、あるいは文化庁に配慮したのか、ともかくですね、現在発掘中の造山古墳の岡山市の市長の大森さんの方からどうぞですね二言三言五言と沢山言いたい事があると思いますので、よろしくお願いします。
< 大森 >
皆さんこんにちは。岡山市長の大森雅夫です。今なぜ世界遺産に造山古墳がなってないかっていう話ありましたけど、世界遺産にするかどうかって、だいぶ議論をされたそうですね。ご存知の方多いと思うんですが、世界遺産になるにあたって、どこまで含めるかっていう、担当のどこだったかな、関大か関学か、ちょっと正確に思いを覚えて思い出しませんが、教授さんと話をしたときにそんなことをおっしゃっておりました。世界遺産かどうかは別にしてですね、私今市長やってちょうど10年経ったんです。ずっとこの造山古墳自身は気になってたんですが、皆さん方も中学校の教科書ってどうなってるか、古墳時代の記述ってご存知でしょうか?わかる?
あのね、取り寄せてみたんですよ。そしたらヤマトの名前だけが出てるんです。古墳の場所でね、他にいくつかのところが出てることは出てるんですけど、あの文章では、ヤマトのことだけなんです。でも、いろいろ考えてみると、それおかしいんじゃないかということで、教科書の記述を変えようと、という合言葉に、そこにもおられる林原美術館の館長の谷一さんと、一緒に整理をさせていただきました。それには松木先生なども入っていただき、多くの人で整理をしたんですけども、まずは造山古墳から行きますけど、造山古墳の長さは350メーターであります。5世紀前半と言われておりますが、ちょうど407年に亡くなられたという履中天皇の上石津ニサンザイ古墳これが360メーターであります。10メーターしか違いません、で形はもうほとんど同じ。古墳っていうのはずっと長い間作ってきてるわけですから、そういう10メーターの差っていうのは、これは意図的にされている。と思わざるを得ない。造山古墳の上に置いてある亀石は、阿蘇の石であります。火山岩でありますね。培塚の千足古墳っていうのが、この前見られるようになったんですけども、そこの石障は、なんと天草の石で、合わせて讃岐の石もあります。
そのときに売買が成立しているわけではないですから、なぜ阿蘇の石、天草の石、讃岐の石がここにあるのかということが重要になってくる。いろいろと調べてみると、九州四国、そして東海北陸と吉備の人間が、国造、今でいう知事市長の役割を果たしている。任命権まで持ってるかどうかはわからないですけど、相当大きな影響力がある。あと日本書紀を見てると、皇室の名前、天皇陛下の奥さんとか、そういった方に吉備の人間が多くいる。これは、やはり、吉備が当時ヤマトと、並び立つだけの存在であったということが、言えるんではない。
そして、その前、これ松木先生の本に書いてあったんですけど、3世紀4世紀っていうのは、100メーターを超える古墳っていうのは、基本的には無い、ヤマト以外は無い。ヤマト以外であるのが、(岡山市東区)浦間茶臼山古墳であります。吉備っていうのは、五族から成り立ってる一番東にあるのが上道(かみつみち)って言われてますが、そこの古墳だけだと、それはちょうど箸墓古墳の2分の1、完全に2分の1ということになって、それも大きな意味があるんではない、そしてその前には楯築がある。
なんでそれが、日本書紀から消えていってるのか、吉備の存在が消えていってるのか、っていうところが大きなポイントだよねと。考えてみると、日本書紀ができたのは、8世紀の頭720年であります。720年っていうと、どういう時なのかっていうと、藤原と蘇我が最後の戦いをして、大和政権の中枢をどちらが力を持って牛耳っていくのか、藤原が強くはなってたわけでありますけども、元明・元正天皇まで、蘇我が頑張ってたわけですね。
それを一掃されたのが、ちょうどその頃、ちなみに最後の争乱と言われている吉備と吉備じゃない、藤原と蘇我の戦いが長屋王の変っていう形で言われている。ちなみに長屋王の奥さんは吉備であります。そのときに藤原が勝ったという流れを聖武天皇がなられて、藤原の時代っていうのに行くんですが、蘇我が負けた、何で蘇我が負けたから、吉備がスピンアウトさせられたのか、ドロップアウトに近いかもしれませんね、させられたのか。これはやはり吉備と蘇我の関係が非常に密だったから、その理由は、例えば蘇我の馬子は、この吉備に何回も来てるっていうのが風土記の中に書かれてます。前に岡山市の市議会議員やっておられた方が(ここに)いらっしゃいますけれども、ちなみに牟佐なんですね。田尻(元市議)さんっていうね、はい。牟佐の大塚古墳は、もうこの古墳と石舞台と全く同じ形(巨大石室古墳)になって、あの頃はみんな同じっていうことも言われてますけれども、やはり相当の影響があった、蘇我憎しで、藤原が吉備の部分を相当消滅させたんではないか、なんで出雲だけが残ってんだ。
これ諸説あって、一つは、壬申の乱のときに、吉備は、大友皇子を応援する、出雲は大海人皇子を応援するということとか、あと藤原の氏寺がどうも出雲じゃないかという話もあります。そんなことで歴史から抹消された、勝者が敗者を抹消していく。その構図ではないかと。私今、宇喜多秀家・直家でもこれやってるんですけど、全く同じ構図でやってるんですが、(笑い)毛利が悪い徳川が悪いとか何かやってるんですけれども、全く同じ構図なんじゃないか。となると、歴史のヒーロー、また、今も伊東さんから少しあった、いわゆる流通の拠点として、多分ここには帰化人が本当に多かったんだと思いますよね。そう言って、この日本の当時の倭ノ国の隆盛を担った、我々吉備の復活をやっていき、まずは中学校の教科書から変えていこう、というように思っております。だから、ちょっと習ったのとか、すぐ変わるかもしれないですね。ごめんね。ありがとうございました、そんなことで頑張っておりますんでよろしくお願いします。(拍手)
< 岡 >
はいありがとうございます。大森市長、私も(市議会の)傍聴に行くとですね、時々ですね、この蘊蓄を語り出すと雄略天皇がとかね、日本経済新聞の連載の雄略天皇の今朝の新聞はこうだとかね、出てきましてですね、私もね実は20年来のお付き合いで、路面電車低床電車MOMO入れるときにいろいろ道路局にね、お邪魔したときに、道路構造令変えろとか言いに行ってたのが、なんとこんなにお互いに古代史が好きだとは気がつかなかったですね。
でも私の方はちゃんと魂胆がありまして、吉備線を路面電車にしてそれをですねちゃんと自転車乗れるようにして、古墳巡り便利だったらいいなと、倉敷からも近いしね、この前自転車でね、吉備線にちゃんと載っけて(輪行)行ってきました。倉敷も自転車で来てみました。やっぱちょっと自転車で全部乗るとね、さすがに50キロ1周ですから、しんどいですけど、自転車とうまく組み合わせればね、実にいいところだなと思っていますので両市長にはぜひよろしくお願いしたいと思います。
さてですね、楯築の王様、造山古墳の王様これね、その当時最大のある面で権力者だったかもしれないし同時にですね、文化人たちをたくさん周辺に抱えていたに違いなんですね。なぜなら先ほどの特殊器台のデザインを生み出した。その楯築型っていうべきですかね、最初のタイプって何かね、エンタシスみたいなカーブを描いてですね、おそらくねまだシルクロードが十分に開設されてはいないけれども、そういう時代にですねギリシャの影響があったかもしれないなとか僕なんか思うんですよね。そういう意味でこういう楯築とか造山古墳の傍には、その当時一流のデザイナーや芸術家や、工芸家あるいはひょっとすると、王権だったら音楽家もいたかもしれないなとね、思うんですよ。そこでですね、今日はアーティストにも登場していただくと先ほど禰冝田さんにもお褒めいただきましたが、しばたさん、楯築はアートですかね。
< しばた >
ありがとうございます。皆さんは、遺跡について聞きに来ようと思ってこられたように、何がアートだというふうに思ってらっしゃるかもしれません。「楯築遺跡はアートなのか?」っていうことで、アートの前提をちょっと共有したいと思います。アートは術、生ける術、というふうに私は習いました。「ほらこんな面白いことがあるよ」っていう方向性を出すだけでもアートだと言われてます。大きな意味では、人間らしさ、人が人であることも言える。これは松木先生や松本先生も、そういうところから古代資料を読み解こうとされてますよね。ですから、アートの古代遺跡の古代資料、どっかで通じていると思いませんか?例えばマーシャルアーツ、私も40歳頃合気道やってたんですけども、武術ですよね。でも本当にすごい、あの先生にひっくり返されたら不思議な技でも、とってもびっくりするんですね。
今ちらっと映ってるのは、曹源寺なんです。私は実は、戸籍は岡山で、結婚したときに岡山に移したんですね。岡山大好きなんです。津島中に住んでました。曹源寺展も参加させてもらっていて、これは曹源寺の何を表しているか、黄色いですよね。今ちょうど落ち葉があります。イチョウの葉っぱを持って帰って、私は絵の具を使わないんですけれども、イチョウの葉を拾ってきて、家に持って帰って、乾燥させて、パリパリになったのを粉にして四角く接着剤を塗るんですね。蒔絵のようにその粉を作ったものを振りかけると、乾いたときに定着するを繰り返してやりました。ですから曹源寺の大きなイチョウの木は、空洞のところが木なんですね。そして周りに落ちてる落ち葉を表しました。これなんか落としてますけれども、髪の毛を切ってパフォーマンスにして細かくしたのを振り落として、「私達もいつか塵になるよね」っていうパフォーマンスをしました。
後ろに大きく写っている手は、ここのアートセンター、美術館の埃(ホコリ)で描いた手です。そして後ろに写ってる写真は、オランダの方たちに、手の上に、あなたにとって大事なものは何ですか。きっとそのものもその人も消えてなくなってしまうかもしれないけど、切実にその時間を、共有できる、すごく素敵な美しい時間だなと思って、こういう展覧会をしました。これからちょっと早くなります。これ後ろに全部大事なものが写ってます。そして、ほら、地層のようなものが階段状にありますけども、これは埃で作った版画なんです。あるときの埃、そしてその次の埃を版画にして、塵芥(ちりあくた)が積もっていくのが地層だと思いませんか?
これは、スズメバチの巣をもらって、それでスズメバチの巣を作りました。なぜだか知りたい方は、私に後から聞きに来てください。これは特殊器台を削っては書けませんよね。大事なものなので、壺を代わりに、壺を削らせてもらってその粉で書きました。ほらちょっとだけほ考古学に近づいてきて、ちょっと安心されたかと思います。これを私が書いた静物画なんですけども、目の前にある生物が左っ側のものは、モチーフなんですね。それを表面を削って見えているもので書くので、削った粉でキャンバスに書いたものです。絵の具を使っていません。もうだいぶわかってくださったと思いますけども、これは岡山の近くの知り合いの山羊さんです。山羊さんの毛をハサミで細かく切って、粉にして色分けしたものと、そこにある土で書きました。
これは梅の木が増えてますね。これ曹源寺のハスをもってかえって描きました。乾かして粉にして描きました。今岡山県立美術館に委託寄託であります。いつか美術館で展示できるのを楽しみにしてるんですけれども。これは我が家の大阪の家の近所の落ちてる鳩の羽を持ってきて、消毒して色分けして粉にして、近くの雑草を描きました。このようなことをしていると、海外なんかで発表すると、褒めるときに、「あんたアホちゃう」っていうことを言われます。それが最高の褒め言葉なんです。大阪でも褒めていい、阿呆ちゃうっていうのは、すごい褒め言葉で「アン」ってなるんですけれども、海外でも「You are so crazy」って言われたら、やったと思うわけですね。そして、ロックやねとか言われても、嬉しくなるわけです。それで日本なんかでは、世の中の見方が変わったわってこれすごいことですよね。すごく拍手をもらったと思うんです。なかなか1人で発表して、作品を作って発表してても、褒めてもらうってこと少ないですものね。そんなダイレクトに言ってもらうとすごく嬉しいです。この話は後から出てきますからね。
「楯築遺跡はアートなのか?」っていう質問をいただきました。亡くなった後の世界に行くため、亡くなった人を残った人が送り出すために、天に繋げる人間の術を結集したアートだと思います。ですから、考古学とアートっていうのは切っても切れないものだと思いますし、松木先生も松本先生もそういう意味で私の作品を見てくださいました。イチョウの木の作品を覚えてらっしゃいますか。あれを見たときに松本先生は後から検証したら「あっ、この人、イチョウの葉っぱでイチョウを描いてる、すごく考古学的な作品だわね」と笑って喜んでくださいました。松本直子先生が、考古学資料を前に、人々の心と知の働きをどういう方法や理論で考えることができるのだろうかと雑誌で言っておられます。文字もないですよね。アートもこういうふうに今一生懸命喋る機会を得られていることはすごい少ないんですけども、普通先にボンとあってそれを読み解いてくださいっていうところではすごくよく似ていると私も思います。
楯築遺跡は古代の生きる術が形にもなったものだと思うんですね。だから最初の質問は、楯築遺跡はアートですか。2世紀の素晴らしいアートだと思います。デザインや技術の変遷を見つけるのが、見つける科学、積み上げる歴史のその次を探す学問だ。いろいろな人から教えられて私はこういうことたどり着きましたけれども、考古学を、その時代の新しいアートの流れを検討するもの、その時代の人の心は意思を表すものの創作、それらが考古学であれば、楯築遺跡はものすごい素晴らしい2世紀のアートだと思います。ありがとうございました(拍手)
< 岡 >
ありがとうございます。明確に楯築はアートだとおっしゃっていただきました。考えてみれば考古学て、アーティストの才能をチェックしてるような学問かもしれませんね。デザインに通じてないと、あるいはその流れを知らないと言えない、ということかもしれませんね。さてアーティストかもしれない今度は岡山大学のね、光本准教授にお願いしたいと思いますが、岡山大学には楯築のアーティスティックなものは全部ある。471年の年号が入ったですね、刀剣が出てきた埼玉古墳群ですね、稲荷山古墳。あそこ行ったときにね、「ここは岡さんすごいですよと、ここで出た国宝がここにあるんですよと」言われたときに(国宝級の楯築の遺物が岡山大学にあるという意味で)岡山はすごいじゃないかなと思ったんですけども。さて光本さん、最新のお話を含めてですね、この辺りのところよろしくお願いします。
< 光本 >
はい。地元のかつまあ楯築遺跡とずっと深く関わってきた大学の考古学をしている者としてお招きいただいてありがとうございます。今日私の方は簡単に二つぐらいの事柄をお話したいと思います。一つは遺跡最新の技術を使って正確に測ると言いますかね、データ化する、しかも3次元データ化するというようなことをいくつかやってきました。その話を前半に一つだけしたいと思います。一つは2017年度になるんですけれどもまさに楯築遺跡でですね、この3次元計測と呼ばれるような、特に取り組みをしました。一つは当時最新のレーザー測量というものをしたのと、もう一つは、デジタルカメラを使ってひたすら写真を何千枚でしたかね、撮っていくというような形でそれを合成するということで、ぐるぐると、なんていうか3次元データにしてぐるぐるぐるぐるいろんな角度から遺跡を見ることができるようなそんなデータを得ることができています。
こちらはレーザー計測から得た、ちょっと楯築墳丘墓の現在の墳丘の状態がこれですね。データ上で、木とかは全部除去することができるので、その地面の状況だけを取り出して、ここは給水塔なんですけれども、これ当時いらっしゃった新納泉先生が作っていただいた、非常に精細な図面とかを作ることができると。そうすると、この墳丘墓の形をこれは今平面図ですけれども、これをより立体的に表したりしながら、この形ってどういうものなのかなということを画面上でですけれども、いろいろ観察することができるようになるということです。
同じようなことはデジタルカメラでも同じようなことで、これがまさに今お話があった給水塔ですが、頑張って当時大学院生だった方が、頑張って写真を繋ぎ合わせて、ソフトウェア上で、頑張って繋ぎ合わせてこういう全体図を作ることができる。これも画面上ではいろんな角度から見ることができますので、いくつかかなり木とかもデータ上で除去して見やすい状況になってます。巨大な3mほどある立石などもデータ化して、これも非常に立体的なものなので、この立体的なものはやっぱり立体的な状況で観察しようというような試みをしてます。
同じようなことをしてるんですが、たまたまちょっと伊東市長様と大森市長様のおふたりが来るからというわけじゃないんですけれども、ちょうど岡山市でも私らやってまして、岡山市で最近は私らのドローンを使って、巨大なドローンを使ってですね、巨大なドローンにレーザーシステムを使ってこの全体を測ってやろうという、空からレーザーを照射して、安全なレーザーを照射して測ってやるという取り組みをしてます。これもデータ上で樹木とか家屋とかを取り除いて、現在の地面だけを取り出して精密な図面を作ることができるというそういう技術です。鳥瞰図って上から見たような図面とかも作ることができて、これもいろんな形を見ることができるという。ちなみにイギリスの有名なアンティクティという雑誌で公開してますのでインターネットで見ることができますから、一応国際的な発信をひそかにやっているというようなことでもあるわけですけれども。そういうようなことで今こういうデータをいかに精密にかつ3次元データを取っていくかというのは、最近のホットな話題なんですが、そこからですからこういう研究をしてより正確にこの土地の状況というのを把握していこうと、そこから何か新たなことが描けるんじゃないかという今段階に来ていってます。ですから我々の研究からすればですね、土地の状況がしっかり残ってる方が実は嬉しいというのは率直なところでありまして、先ほどの楯築墳丘墓も禰冝田先生のお話でも、当時のままのものが形が残ってるっていうところが大変ね、魅力的だという話もありましたが、形が残っているからこそ研究ができるという点も、なきにしもあらずなところで、この辺がどっちを取るかというところで難しいんですけれども、一応残ってればこういう研究もできるというところでかつ、先ほども森の中にある楯築が非常に何ていうか、魅力的だとかね、あるいはお話もありましたが、この土地に刻まれた歴史というものを失うことなくどうやって今後、守っていけるのか、共有していけるのかというようなことの話になってくるのかなというふうに思います。
はい。ちょっと2件目、最後簡単な話をしますが、えっとですね楯築墳丘墓関係の研究ということで私自身最近取り組んでいるのが、楯築は本当にですね非常に際立った個性を持っているんですけれども、皆さんもよくご存知の、先ほど来から弧帯文石とかですね、人形土製品とかっていうようなものが出たりしているということで極めて珍しいものが出ているわけです。でも残念ながら考古学者的にはですね、極めて珍しいものっていうのは研究が大変しづらいもので、仲間がいっぱいある土器とかの方が研究がしやすいんですけれども、一点物ってのはとりつく島がないところがありまして、研究が大変しづらいんですね。「珍しいね」ということで終わっちゃうんですけれども、これは要するに立体的にかたどった、何らかかたどったものだというふうにまとめていくと、楯築からは何かこの弧帯文石、ちょっとよく何を語ったかわかりませんが、弧帯文石とか人形(ひとがた)とかあるいは家みたいなものも出てるんじゃないかというのが最近のことですね。
そういうふうに見てくると、実はこの楯築のあの周りには何かをかたどった立体的にかつ精巧なものが、もう集中してるっていうふうにね、捉えることもできるわけです。楯築から今言ったようなものが出てますし、こういう鯉食神社でも弧帯文石が出てるし、何か龍型土器ていうのも近くから出てるらしいし、ここは造山古墳ですけどその隣の丘陵には甫崎天神山から鳥型土製品というのも実は出てますし、ここは倉敷考古館が持っている女男岩遺跡ですけど、ここは家型土器、倉敷考古館さんのところに行かれたらありますよね。
これ実は岡山大学がかつて掘って、実はちゃんと報告書を出してないちょっと遺跡があるんですけれども、雲山鳥打墳丘墓群というのが実はここにありまして、実は鳥もあれば家もあるということがあるんですね。だからここを実は何か立体的なものが楯築を中心に集まっていると、しかも墳丘墓が基本的に多いということですね。かつどうも他の地域とも関わりながらそれを楯築に持ち込んでいるというようなことで、あんまり目立たない資料ではありますけれども、特殊器台とかよりは、メジャーではなくってかつあまりにも特殊すぎるので、取り上げられないんですが、実はこういうちょっと別の角度からまた楯築の意義というものを考えることもできるということで、今それに取り組んでいるということです。ということでまだまだこれからも楯築関係の研究がね、続いていったらいいんじゃないかなというふうに思います。(拍手)
< 岡 >
ありがとうございます。今、家型の土器が出たということで、倉敷考古館には昔から展示してあるのが一つだけあってですね、女男岩遺跡ということで、実はそこにですね私、特殊器台復刻をやったときにね、1個だけ自分で作ってみたんですね、そこに今置いてます。これはただね8時間でできましたけど、特殊器台は211時間かかりました。やっぱり(文様を)刻むのがすごいね時間がかかったってことはわかるんですけども、先生の今のお話でね、今日ちょっと画期的驚異的というか、家型そんな楯築にもあった、10個出てきたということがありましたが、そんなにあったから、禰冝田さんこれ新事実なんですかね。家型のものがっていうのは?
< 禰宜田 >
いや、聞いててそうなんだと思ってですね、これはもう光本さんがあれですよね、研究を今日やるっていうふうに言ったようなもんですよね。なので、やっぱ足守川の下流域になるんですかね、下流域がそういう場所として弥生時代にあった、そういう集落が存在したっていうことですね、その集落が存在してその人たちが、いろんなものを作り出したっていうことで、大変面白い地域なんだなっていうことを今お話を聞いてて改めて思いましたですね。
< 岡 >
はい、ありがとうございます。お墨付きをいただきました。さてこの雲山鳥打遺跡、私もちょっと登ってみたんですけどね、もう薮だらけで大変だったんですけども、これ岡山市にあるんですね。まだ発掘調査報告書が出てないということなんですけれども、結構出てないものもあったりするんですよね。
はいさて、そういう吉備にはまだまだね、これからたくさん出てくるかもしれないものがたくさんあるわけですけれども、最近ではですね、桃太郎伝説の生まれたまち岡山ということでね、日本遺産にも指定されました、楯築や造山古墳そして桃核もね、指定されたわけですが、さてそのあたりを今度はどう展開していくかということについて、両市長にいろいろお聞きをしたいと思います。それではまず、今度先にですね、大森市長の方、よろしくお願いいたします。
< 大森 >
はい、それでは今後どうするかということでありますけど、今さっき伊東さんから皆さん方への質問の中に、岡山県民の方っていうのがありましたですよね。大体8割ぐらいですかね。イメージとして8割から9割近くが岡山県の方、実は私18までは岡山にいたんです。そしてこの10年前に岡山へまた帰ってきた。その間、東京が多かったんですね。東京にいたときの印象なんですけど、岡山の人って、ふるさと自慢ってあんまりしない。何となく感じません?案外しない。東北九州、九州は一つって言ってますけど、九州一つ一つですから、もう自己主張結構強い。こういう関西ね、もう言葉自身も相当のアクがあったりして、やはりそこは何て言うか、気候風土だとか様々なものがそういう県民性みたいなものを作ってんじゃないかと思うんですけれども、ただ、この吉備の国、ていうのは、3世紀から、5世紀6世紀にかけて、相当隆盛を誇ってることは間違いない、それが桃太郎ということで、今回日本遺産にしてはいるんですけれども。
その他もちょっと今日の話とは違いますが、先ほどの宇喜多直家にしてもですねこれゼロからのスタート。商人の家に育った。ゼロからのスタートで50万石までいっている。秀吉は確かにそうかもしれないけど、秀吉は信長の財産をもらってるわけですよね。自分で勝ち取ったのってのは直家ぐらいなんじゃないかな。それが少し敗者の論理でおかしく、報道、報道じゃないや、述べられている。そういったね、歴史の闇で埋もれたものがあって、私はやっぱりこの岡山人の誇りっていうものを醸成していくということが重要なのかなと。私が帰ってきて一番驚いたのは「うらじゃ」(岡山市で1994年創設された夏祭り)でした。うらじゃ素晴らしいと思いません。これ岡山市の方、の方はどこまでご存知なのかはあれですけど、あれ、一般の方がペインティングをして踊ってんですね。この発想っていうのは、鬼は、温羅は悪くない。一緒に、我々とこの岡山の街を作っていったんだって。なんていいますか本質を見事に突いてやっている、こういったものをですね、何ができるか難しいところでもあるんですけど、誇りを作っていく。そのために様々な発信をしていきたいなというように思っております。谷一さんとやった対談も、来年は山陽新聞に大きく載っけますし、また楯築のことが書いてあるかどうかちょっと覚えてないすけど、そういうことですね。古代の吉備、我々にとってどういう意味を持つか、どんどん発信していきたいと思いますんで、よろしくお願いいたします。(拍手)
< 岡 >
ありがとうございます。何でもね、造山掘ってるよう、上を掘ってるようですけども、楯築も給水塔取るよと、総社も何か作山を掘りたいと言ってるっていう話でね、なんかだんだん連鎖してきて、この地域ちょうど三つの都市があってね、三角地帯の囲まれたとこって、やっぱまさに古代もそうだったけどすごいよなっていうような感じなんですが、伊東市長、倉敷市もですねそういう意味ではめちゃくちゃ良いところにあるように思うんですが。
< 伊東 >
はい。先ほどお話をした中でのですね、この楯築遺跡の保存活用計画ですね。この令和5年度と令和6年度、つまり新しい給水塔をよけるための給水塔を作っている間に、その保存計画を活用計画を作って、実際に給水塔を取っていこうと、そういう段取りなんですけど。さっきもちょっと申し上げましたけれども、うちのこの保存活用計画の委員会ですね、第1回目がもう大体3時間近くあったんです。予定だったら2時間弱ぐらいだったんですけど、3時間ぐらいありまして、倉敷市の文化財保護審議会の会長の尾崎先生(尾崎聡、岡山学院大学・岡山短期大学教授)、副会長の澤田先生(澤田秀実・くらしき作陽大学教授)、実際に発掘にも立ち会われました。そして松木先生ですね、それから宇垣先生。そして、光本先生にうちの福本さんに、それで代々守っていただいてる楠さん、それから芸科大の観光学のですね、芦田先生(芦田雅子・倉敷芸術科学大学准教授)もあらゆる分野の、よく知っている方、それから最新のレーザーでいろいろ計測してくださる方、それから観光学の先生それから、本当にこれまでの歴史を知っている方も皆さんに入っていただいて検討しているということですし、この楯築遺跡、それから鯉喰神社、また箭田の大塚古墳もですね、倉敷市が岡山市さんたちと一緒に古代吉備の遺産ということで、日本遺産を取らしていただいたものになります。
真備の箭田の大塚古墳はですね、これはまあ、あのヤマト朝廷時代のときのもうちょっと前です。吉備真備さんの先祖の墓だと、墳丘墓だというふうに言われてますので、その墓も含めて、そしてうちの美観地区の真ん中にある倉敷考古館、先ほどの出土品のところにも出てきましたけれども、ここには吉備の古代のですね出土品をたくさん多く、その所蔵していただいているので、その美観地区の、これいわゆる江戸時代のとこなんです、そこに、いやいや実は古代の吉備のことから、それから真備の箭田の大塚古墳もそうだし、でも何よりこの楯築・鯉喰神社、この辺りのところっていうのは、もう倉敷市のもちろん文化財的に大事なわけなんですけど、観光資源としても非常に大事だというふうに思っておりますので、そこら辺をこの2年間の活用計画、非常にその活発な意見が出ました。楠さんの方がですね、もうあの、もっと住民の皆さんのみならず観光客の方も見れるような感じの設備にできないか、弧帯文石がですね、今あの、あるわけですけれども、それがもっと近くで見れるとか言うことができないだろうかと。
でもそしたらですね、確か宇垣先生がですね、いやいやそこはやっぱりその、あの場所、例えば場所を動かしたり、それから、その非常に貴重なもんですので、そのもしガラスを割られても、絶対に外に持ち出せないような、今収蔵庫になってるんですけど、それを動かしたらいけないんじゃないか、などなどいろんな意見が出まして、非常に白熱したあの感じになっております。ですので発掘のときも、できれば皆さんに見ていただけるような形ができればと思っておりますんですけれども、その発掘するときも、重機を乗せたら下の物が影響があったらどうなんだろうか。いやでも、宇垣先生とかが、いや重さから見ればもう大丈夫なようになってるんじゃないか、とかいろいろそこら辺も、基礎的なところから非常に熱烈な議論が交わされておりますので、皆さんがなるべく見ていただけるようにと思っておりますけれども、その過程をいろいろ公開しながらですね、楽しみにしていただくと、いうことが大事かなと思ってまして、倉敷の観光また、この吉備の古代遺産の観光にですね、活用できるように頑張りたいと思っております。ありがとうございます。(拍手)
< 岡 >
ありがとうございます。今のそのですねちょっと先にそれじゃね次、しばたさんの予定だったけど、ちょっと光本さんに振りたいと思うんですけども、こういうですね、保存のあり方っていうかね、僕どこだったかな、吉野ヶ里行ったとき、あれいっぺん埋めて、その上に作るんですね。後から知って思ったんですけども、これからある面で観光にもどんどん使っていかないかんだろうし、地域の人が知るためにはね、大事だと思うんだけど、その辺ってなかなか考古学者として悩ましいんじゃないですか。
< 光本 >
はい、とても悩ましいなと私も思いながら、どれが何か正解というわけではないので本当ね、これは今すぐ答えは出ないから、答えが出なかった学生にちょっとレポートに書かせて、ちょっと考える訓練をさせようかなと思うぐらい大変重要なテーマだなと、私も思ってます。ただ、そうした中でやっぱり大学の中でこもって何かするよりも、やっぱりいろんな方々と、やっぱり直接お話したり、声を聞いたり、その現地に行ったりとかですね、やっぱそういう経験がないまま、頭だけで考えてもよくないかなというところがありますので、今日のような場ってのは大変ありがたいなというふうに思いました。
< 岡 >
ありがとうございます。先般造山古墳の上に行ってると、ちょうど文化庁の調査官が来られてましてね。どこまで掘るか、何センチ掘るかみたいなね、やっぱりこれはなかなかね、法律の枠の中でやっぱ文化財を掘るということは、これは破壊することでもあるので大変なんだなと、そういう意味では倉敷市もこれからね、我々はもう早く取ってくれって、言やあすんだけど、これから大変だなと本当にしみじみ思った次第です。そういうことについて考えてみれば、しかしその市民の合意作り、というところでアーティストの存在ってすごくでかいと思っているわけですよ。実は瀬戸内国際芸術祭なんか福武さんなんかともね、始まる前から知ってますけど、「岡、お前は現代アートなんかわからんだろう」とかよく言われたんですけども、それでもですね、やっぱりそういう面で芸術祭あったらいいね、各地につつ、ずいぶん芸術祭増えてきたじゃないですか。こういう時代になったんですけど、このアートの展開についてねどうでしょうかねえ、しばたさん。
< しばた >
大阪でもね、小さなそういう、見て回る街を見ながら街を感じて作品に出会って、考えも家に持って帰るっていうような、に参加したことありますけれども、瀬戸内芸術祭、あの言葉で言えば、アートツーリズム、国際展ビエンナーレ、トリエンナーレ、海外でいったらもういろんな島に行ったり、もう地域でも本当に旅行して回らないと見えないようなものがありますね。瀬戸内芸術祭も素晴らしくて、また今度行くの楽しみなんですけども、越後妻有大地の芸術祭なんかはもう地元の方と関わっているので、人と出会うし、アーティストと出会うし、作品と出会って、その土地と出会う。行くことで、滞在して食べるし泊まるし、動き回るっていうことで体験するんですね。だからきっと、それ今からアートのことを喋るから皆さんふうんってなってるかもしれませんけど、そのアートのことをちょっと考古学に脳内で変換して聞いてってください。そしたらちょっとヒントがあるかもしれません。その地域の長所や問題など社会的な投げかけも含めて、教育的に進められ、教え教えちゃいますみたいな感じですね展覧会が外に出ているわけですからね。
産業振興を含め、大きな影響を放つ。旅をしながら地域を感じ、わざわざ行って、だからわざわざ行くんですからね、すごい準備もするし楽しみもするし、わざわざ行ってその世界に浸るんですね。それは体験型で没入型ですね。アートを通じて世界を眺め、「こういう感覚知らなかった、見たことなかった。知らない世界を見せてくれてありがとう、へえ、もうそんなことまでやってくれるの、クレイジーだな」って思ったり、例えば楯築遺跡に戻ると、せっかく作った特殊器台、割っちゃうんでしょう。めちゃくちゃロックですよね。クレイジーだと思いました。そういうふうなガツンてくる知ってしまうんですよね。皆さん知ってるからもっと知りたくてここに来られたと思うんですけれども、アートを通じて世界を眺めてその感覚を持ち帰っているから、蓄積し蓄積していくんですね。行けば行くほど、古墳に行けば行くほど、知識が入ってまた伝えたくなる。ね。アートツーリズムは、文化的に身体的に染み込む体験的なチャンスなんです。
マインドトレイル(MINDTRAIL、奥大和 心の中の美術館2023-0916~1112)というのに行ってきました。すごい体力かかったんですけども、奈良県吉野町・下市町・下北山村を半日以上かけてそれぞれ半日以上、半日なんかじゃ回れません。もう1日丸々ものすごい筋肉痛になるような、よくこんなことみんなに来いって言うなって思うような展覧会だったんですけども、自然の中で体験する芸術祭だったんですね。世界遺産、紀伊山地の霊場と参詣道を歩いて、土地や人々と対峙しながら自然と作品を自分の心に、自分の心の中にある美術館に展示してくださいですよ。すごいこと言ってますね、うたい文句ですからね、そのまま鵜呑みにされなくてもいいけどそんなことできたらいいなと思いながら、作品と作品の間歩きながら考えるんですね。
ね、考古学とアートをひっくり返して聞いといてくださいね。コロナ禍で大きな打撃を受けたんですけれども、すごく活性化に寄与することができたと言ってるんですけど、本当かどうかわかりませんよ、奥大和に集まるアーチストや来訪者の視線が芸術祭にだけではなく、地域やその産業、伝統文化にも向けられ、地域と来訪者と作品とアーティスト四つの関係性が新たに構築されましたって言い切ってますね、これからかもしれません。でも、ここに何かヒントがあるかもしれません。こういう大きなスペースを歩いて回るんですけど、これは吉野でこれから映るのは2ヶ所のところがもうごっちゃになって出てるので、こんな感じかなと思ってみてください。お願いします。
地図ですねこれを見てたら20、30ぐらいあるんですよ。もうねほとんどねノイローゼになりそうになりながら、どこがどこだと探しながらもあります。杖があります。杖なしでは登れないし、降りれません。しかも見るとき1本だったことに後悔するぐらいでした。すごく素敵なところもあって尾根伝いに歩いたりします。音が鳴る作品があって、そういうのも作品なんだなと思いながら行きます。
はい。これ陶板がありますけれども、山を登ったり降りたりする、その高低差を焼き物の温度と重ね合わせてる作品なんです。後から出てきます、はい。これはコンポストみたいなものなんでしょうか?温度とか何かエネルギーを音に変えてました。
これは木と人との間に、義肢の義足とか義肢を作る方が一緒にコラボレーションして、そして肘を与えたくっつけたら、木と一体化するっていう、これちょっとなかなか面白かったんですけど、はい。
こういうね、これあんまりわからないですけどすごい坂道で途中で泣きそうになり写真撮りました。これなんか絶対作品だと思うんで、だから何も見ても何か作品じゃないかなと思うんですけども、これはただ切り倒された木です。(笑い)陶板のありましたよね。私達こそトボトボ歩いてるこの情けない姿を映されているようですけどもこれも作品です。これがほとんど作品の最後にあったんですけども、高いとこだったんですね。これが焼き物の焼いた温度と、私達が歩いたこの行程をちょっとわかりやすく、重ねていて、今こんだけ歩いてきたよく頑張ったねと褒められたり作品ですね。
はい。こんな素敵なところ、すごい達成感があります。だから今お話を聞いてて、総社、倉敷、岡山またがって自転車と電車で行く、何か古墳トレイル、古墳遺跡アートトレイルツーリズム、途中で何か宿があったり、グランピングがあったり、美味しいジビエとか食べたりしたいですよね、なんかね、綺麗なお姉さんが綺麗な古い古代の格好してくれたりしたらとっても嬉しかったりしますよね。だから体験型ってそういうことで何か染み込むんです。だからぜひそういうことをしていったらいいんじゃないかなと思います。きっとですね、古代の森先生みたいな方がね、作るんですよ。誰も作れないようなものを作るわけですよ。そしたら拍手を与えてくれて、そして、作る集団のリーダーになっていくんですね。いろんな人たちを率いてもっと大きなものを作っていったりするわけですよ。それが残っていって国が大きくなったり、支配者の人が亡くなったときに、おっー森さん使おうということになるわけですね。だから絶対アーティストと遺跡は繋がっていて、そしてそれを体験するツアーであるとか、何かこれ、体に染み込む、そして他の人にもすすめる全然好きじゃないあの人を連れてきて、こんな楽しい体験できるっていうのが、あったら、今日見せてもらったこれですけれども、こんな楽しい世界に近づけるんじゃないかなと思います。ありがとうございました。(拍手)
< 岡 >
ありがとうございます。なんかちょっとわくわくしてきますね。なかなかねあんまりワーッと押しかけられても困るという、吉備の良さみたいなものをね、と思うんですが、最後にですね禰冝田さんちょっと吉備っていうと鉄、鉄の専門家というふうにちょっとさっきおっしゃられてましたが、吉備は鉄だって、なんかねもうみんなすぐもう弥生時代からタタラがあったみたいな、なんかイメージを持たれたりしてるんですけど、その辺りはどうなんですかね。早くから製鉄はあったとはありますが?
< 禰宜田 >
弥生時代に製鉄があったという考古学的なあの証拠は全くないんですね。吉備でも、6世紀になってからだと思うんですよね、というのが現状なので、例えば楯築の人が鉄の流通とかですね生産とかに関わっていたかというと、ちょっとそれは厳しいかなという、これが一つあるんです。ただですね、楯築遺跡を調査した岡山大学の近藤義郎先生とかはですね、そうはそうなんだけども、弥生時代の後期には九州から東北の南部まで鉄器は流通するような社会になるわけですね。もう2世紀か3世紀にはそういう社会になると。そうすると、国内に鉄生産がなければ、基本的には大陸から輸入してるっていう考え方が基本なんですね。それで本当に流通、それだけの量を流通するだけのシステムが体力とね、成立していたのかということを考えるとなかなか難しいんじゃないかっていう。であれば、国内にそういう原初的なプリミティブな形での製鉄があってもいいんじゃないかということは、論文ではそこまでは書かれてるんですね。
ただ、考古学的には今のところそういう残念ながら事象はないと。ただ、褐鉄鉱ってありますよね、ヨーロッパとかではですね褐鉄鉱を低温でもですね、加熱することによって、製鉄ができたんじゃないかという研究がないわけではないんですね。そうなっていくと、例えば熊本の辺りにはですね、そういう褐鉄鉱が産出する産地がたくさんあるんです。岡山は無いんですよね、多分まだないんじゃないかと思うんですけどね、いくつか褐鉄鉱が取れるところであれば、それを加熱することによって、製鉄生産が行われていた可能性っていうのは考えて、考える必要があるのかもしれません。ただ、残念ながら今その考古学的な現証拠はないというのが現状だということです。
< 岡 >
ありがとうございます。今後のですね、研究にもしたいと思いますけども、やっぱり吉備というと真金吹く吉備ってね、ついてるもんですから、ついついお聞きしたかったというところです。さてそろそろもう時間も終わりになってまいりましたが、本当にあの今日はですね、これだけのメンバーを揃えて文化庁にも来ていただいて、ということでね、なかなか素晴らしい展開になっていくのではないかと思います。それでは最後にですね、それでも一言ずつというか、極めつきの一言ずつをですね、こちらから、なければ頑張るぞでもいいんですけども、順番にお願いしたいと思いますので、まず光本先生、よろしくお願いいたします。
< 光本 >
岡山大学の考古学の研究室としてもこれからも楯築のこれ研究のみならず、これから様々な保存や活用ということに携わっていきたいなと思っていますので、大変貴重な時間をありがとうございました。
< 岡 >
ありがとうございます。続きまして、地元の伊東市長よろしくお願いします。
< 伊東 >
はい。1月も思ったんですが、今日も皆さんの非常な熱気がですね、我々に対する大変なプレッシャーを感じているところでございます。いろいろな皆さんのいろんな熱いご期待とですね、それからさっきの委員会の先生方その中には、うちの市役所でずっとあのこれに携わってくれた福本さん、それから今のブラタモリにも何回か出て、うちの文化財保護課の藤原くんとか、非常に人材も揃ってますし、何より文化庁の方帰られたかもしれないですが、今のちょうど文化庁の次長さんが、倉敷の倉敷南高校の卒業生で、ちょうどいいところに配置がいらっしゃるんで、この間にですね、ぐっと進めることができればいいなっていうふうに思ってます。本当に貴重な遺跡だと思いますのでぜひ、本当にこの弥生時代の、またその、本当に卑弥呼の前の時代の、まさに王様という位置づけになればいいなという思いを持って頑張っていきたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
< 岡 >
ありがとうございます。我々も卑弥呼の「卑」ぐらいまでしかまだ言ってないんですけど、卑弥呼の前と言っていただきありがとうございます。それでは禰冝田先生よろしくお願いします。
< 禰宜田 >
立場の違う方々の意見を聞けてですね大変面白かったかなと思うんですね。冒頭に2人の市長が出てくるシンポジウムなんてなかなかないよって話をしたと思うんですけれども、話を聞いてて、ここまで歴史の詳しい市長がいるっていうことは、部下としてはですね、心強いとともに、(笑い)これやばいなというふうに思ってるんじゃないかなというふうに思うんですけれども、こっからがあれなんですけどねやっぱりね、この楯築とか造山がある場所さっき、これもまた市長が流通の拠点があったんじゃないかってね、専門家が考えることなんですよ、そういうことはね、それを市長さんが言ったっていうことはすごいなと思ってるんですけれども、これ皆さんね、その後どうなんですかね、あそこの場所は、総社市も含めてね、あそこの場所にこれ二つが近くに存在したということこれはね多分ね、偶然ではない、必然だというふうに見て、あそこの場所が地政学的にもですよ、どういう場所だったのか、港が近くにあったのかとか、あそこの研究をですね考古学以外のいろんな分野の方々の共同研究ができるとそこの場所のいろんなことがわかるんじゃないかなと。そういう場所の研究は、皆様方もですよ、これやっぱりね、研究は研究者だけがやるんじゃないんですよ、皆様方が主体となってやるっていうことも重要だと思うんですね。なので、そういう多角的なね、総合研究っていうものができるといいんじゃないかなというふうに思います。
そして大変なお2人の市長のいるもとでですね、いろんな文化財が良い方向にですね、皆様方のやはり希望とかね、期待っていうものができる計画に反映できるようなですね体制というですね、行政、三者が連携を図るっていうことが遺跡の将来にとっては大事なので、そこの部分をやっていただいて、冒頭、課長が言ったように、倉敷スタイルが日本だけではなくて世界にまでいけるんじゃないかっていう力強い話があったと思いますけれども、そこを高みを目指してですよ。皆様方はですね、できる皆様方が個人個人ができる立場の中でですよ、楯築遺跡に関わっていただくということが大切で、それが楯築の墳丘部に眠っている方も、棺の中で楽しんで喜んでいるんじゃないかなというふうに思います。ぜひ皆様方もですね、これからも楯築遺跡に関わっていっていただきたいというふうに思います。以上です。
< 岡 >
ありがとうございました。それでは歴史が好きすぎて困る、職員もいるかもしれない大森さん、よろしくお願いいたします。
< 大森 >
はい今、禰冝田先生がおっしゃったように、2人の市長が出てくるのが珍しいという話がありましたけれども、古代吉備には岡山も倉敷もありません。みんなでやはり盛り上げていくっていうことが重要だろうと思います、関係市合わせて、吉備とヤマトの二頭政治、これで頑張っていきたいと思いますんでよろしくお願いいたします。
< 岡 >
ありがとうございます、しぱたゆりさんよろしくお願いします。
はい、どうもありがとうございます。門外漢で全然違う人間がやってきたのに暖かくゆっくりと聞いてくださってありがとうございました。面白い愉快なことっていうのはやっぱりどっかね、死ぬまでですね。遊び心があると思うんですね。遊び心がなくなったらつまらないじゃないですか。よく例えるのが大縄跳びですね。おはいんなさいってぐるぐる回してて1人で2人で回してるだけじゃ駄目ですよね。お入いんなさいってアウトリーチして、どんどん入って、どんどん綱が長くなって、みんなで飛んだら面白いんです。面白さも倍増です。大変かもしれないけど、遊び心あってお入いんなさいをしながら、楯築遺跡はわくわくするとこだよって、今度一緒に行こう、ちょっとお弁当持って行こうとか、そういう一つ一つのお誘いが、次を実を結ぶんじゃないかなと思います。そして楯築遺跡はやっぱりすごくわくわくするような2世紀の瑞々しいアートなので、○○遺跡のようにコンクリートや強化プラスチックで固めて、そのウルウルした潤いのある古代のロマンスを封じ込めないで欲しいなと思います。とっても大事な足の下の奥の方にある素敵な宝物をとっても大事にしていけたらいいかなと思います。
< 岡 >
ありがとうございました。今日は本当にたくさんの方々に来ていただきまして、また本当にね、これだけのメンバーにですね、熱いお話を聞くことができました。今日実はこの古墳図鑑ってのは、これ私があの大学時代に作ったやつをリニューアルしてね、皆さんにお配りしてますけども、ここにURLをつけてましてですね。ここからですねこの吉備の古墳全クリアしようと人が出てきてまして、ただ、危険なとこもあるので、これは注意していっていただきたい、ちゃんと運動靴はいていっていただきたいんですけども、実は明日はですねFM倉敷の生中継で11時から1時まで、このウォークをやりますので、またこれから行きたいという方もぜひ参加していただけたらありがたいと思います。最後にですね、今朝気がついたんですけども、ゲームのカプコンというところが「くにつかみ」っていうねゲーム作るんですね。(ゲーム『祇(くにつがみ):Path of the Goddess』)くにつかみつったらオオクニヌシのことじゃないですか。そのオオクニヌシの名前のゲーム作って、なんか見ると卑弥呼みたいな感じでね、伊勢遺跡の横のこれ滋賀県にあるんですけどそこの横の三上山がいきなりビヤーンとか出てくるんですね。古代のアートがですねゲームにガシャーとこれから出てきて、世界に広がっていくかもしれないなと、その中に楯築や造山はあるんかなとかね、思った次第で、これからそういう意味では若い人々もゲームから入ってくるという時代になるんじゃないかなと思いますね。今日は本当に皆さんありがとうございました。まず、パネラーの方々に盛大な拍手をよろしくお願いします。それではこれで第3部を終わらせていただきます。失礼します。